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ステルス戦闘機 スカンク・ワークスの秘密 ベン・R・リッチ [書籍]

ステルス戦闘機―スカンク・ワークスの秘密

ステルス戦闘機―スカンク・ワークスの秘密

 
 
 
 
 
 
1997年の出版だが、謝辞の日付は1994年になっている。
 
 著者はかのケリー・ジョンソンの後をついでスカンク・ワークスのボスになったベン・リッチ。F-117Aの開発時の話がメインだが、U-2、SR-71、ステルス船シー・シャドーなどのエピソードもあり。訳者は増田興司氏。
 
【第1章 幸先よいスタート】
ケリー・ジョンソンは1933年、23歳でロッキードに入社、エレクトラの設計を担当。スカンクワークス自体の設計者は50人程度だが、機械工が別に100人程度。いずれにしても少数精鋭チームで、P-80、F-104、SR-71、U-2が代表作となる。「すばやく、静かに、時間通りに」がモットーのケリー・ジョンソンが1975年1月に定年退職したことにより、リッチがあとを継いだ。当時はL-1011がビジネス的に失敗し、政治的スキャンダルで会社もボロボロ、倒産寸前だった頃。リッチの最初の仕事はU-2をTR-1として再生産させることだった。その後、F-117Aの開発を主導することになる。
レーダーの専門家で数学者のデニス・オーバーホルザーが、モスクワで9年前に出版されその当時空軍により翻訳されたモスクワ工科大学のピヨートル・ユフィムツェフの「回折理論による鋭角面の電波の解析」を見出す。この論文は与えられた形状について反射する電磁波が求められるので、機体のRCSが計算で得られることになる。デニスはこれを「エコーI」として5週間でプログラム化した。
DARPAがステルス機の競争試作を始めたとき、ロッキードは当初お呼びがかかっていなかったが、1ドルで契約することにして途中参加した。
ちなみにSR-71はRCSはパイパーカブと同じくらい、F-14の1/100とのこと。ステルス性の65%は機体形状、35%はレーダー吸収材の寄与による。
 
【第2章 間に合わせの機体】
最初のステルス実証模型「絶望のダイヤモンド」はその形状からケリー・ジョンソンを含めた身内からも当初、懐疑的な意見が集中した。しかし、モハベ砂漠の「マクダネル・ダグラス」のレーダー試験場でテストを行った結果、レーダーには写らないことが確認された。1976年4月にノースロップ社に勝って、実証実験機「ハブ・ブルー」の開発が始まる。その際ハブ・ブルーはマンハッタン計画以来の最高機密指定になっている。 経費を節約するため、機体は色々な既存の部品が流用され、操縦用アクチュエータはF-111、操縦制御コンピュータはF-16、慣性航法システムはB-52、サーボメカニズムはF-15とF-111の改修品、HUDはF-18、操縦席はF-16のもの。1977年12月1日に初飛行、事故により2機(全部か?)が失われている。
 
【第3章 銀の弾丸】
 1997年、カーター政権に対しハブ・ブルーの説明が行われ、その影響からか3週間後にB-1Aの開発が中止される。これにより、空軍の一部に恨みをかったようだ。F-117の開発が始まったのはハブ・ブルーの実証実験が完了する前、しかもスケジュールはかなりきついもの。契約自体は1978年11月1日に調印され、1980年7月までに最初の機体を完成させることになった。インフレ、人材不足、工作の難しさなどで開発は困難を極める。また、秘密保持に対する要求もかなり厳しく、作業効率を悪化させる。テスター社が発売したF-19なるプラモデルが70万個も売れたこともこれに油を注いだ。
平面での組み合わせで構成されるF-117Aは空力効率が20%も悪いとあるが、何に対してかよく判らない。ピトー管の着氷問題を解決するのには2年半もかかっている。コクピットのガラスにも特殊なコーティング剤が施されている。一時期デュポン社が供給していたフェライト塗料のレーダー波の吸収能力が悪化したが、これはデュポン社が勝手に製法を変えていたためだった。最終的に1981年6月18日初飛行に成功。この日はベン・リッチの誕生日。
 
【第4章 いまいましい蚊】
最初の機体は尾翼の面積不足、剛性不足で飛行中に吹き飛んだ。生産は1986年までに33機、1990年半ばまでにさらに26機で、一機あたりの価格は4300万ドル。F-117Aの部隊ではカモフラージュにA-7が使われ、ダミーのペイントをしたナパーム弾を用意するとか、機体に「核反応冷却口」とか注意書きしていたそうだ。世間に公表されたのは1998年になってから。1991年1月の砂漠の嵐作戦で大活躍したのは有名な話。
 
【第5章 スカンクの由来】
ベン・リッチは1949年、カリフォルニア大学バークレー校に入学、3000人中20番で卒業の後、UCLAの修士に進む。スカンクワークスに入ったのは1954年の12月。熱力学のエンジニアとしてヘルプに入った。最初は臨時的な採用だったらしいが結局リタイヤするまで居ることになる。ケリーとのエピソードとして、入社二年目にリッチが設計していた図面を見るなり、空気取り入れ口が20%ほど大きいと指摘したそうだ。実際後で計算しなおすと、18%大きかった。エンジニアとしての直感はやはり鋭いものを持っていたようだ。
"Skunk Works"の由来だが、岡部ださく先生は隣が皮革工場だったから、と書いていたように思う。しかし本書ではプラスティック工場となっている。また当初は"Skonk Works"と呼んでいてこれは「インディアン・ジョー」という漫画に出てくる、古びた靴と死んだスカンクをいぶして「キッカプー印のジュース」なるものを作る蒸留所のことらしい。1960年にこの名称の使用に対して、ある出版社が異議申し立てを行ったので、"Skunk Works"に改名、ロゴと一緒に商標登録までしている。
 スカンクワークスの最初の作品はかのP-80だが、それに続く「サターン」小型旅客機、VTOLの「XFV-1」は失敗作となった。
ロッキード社が1932年、社運をかけた双発旅客機の風洞試験をミシガン大学で行われていたとき、一人の学生が指導教官とは正反対の意見を述べた。これが23歳ののケリー・ジョンソンで、ロッキードに気に入られ入社。このときの旅客機は双垂直尾翼に改修され「エレクトラ」となる。エレクトラを「ハドソン」に改造するのもケリーが中心的になって行われたようだ。
 
【第6章 大統領への絵葉書】
CIAはイギリス空軍と共同で「キャンベラ」を改造して高度1万6800メートルまで上昇できるようにし、ソ連の偵察を行ったが、10箇所以上も地上砲火で損傷した。探知できないほどの高空を飛行して偵察するアイデアを出したのはエドウィン・ランド博士という人らしいが、これが発展してU-2が計画される。
ベン・リッチはU-2設計においては空気取り入れ口と排気口の設計を担当している。 U-2の飛行高度は2万1400m、航続距離9600km。燃料も特殊でマイナス57度でも凍結しないようにシェル石油にLF-1Aという燃料を作らせた。このときケリーとシェルを仲介したのが、当時はシェルの重役だったジミー・ドゥーリットル。
最初のU-2が完成したのは1955年7月15日。秘密基地の「パラダイス牧場」で初飛行が行われたのは8月4日となる。
 
【第7章 ロシア上空を行く】
U-2の飛行は気をつかうらしい。燃料を消費したときのバランスの調整をはじめ、飛行速度も最高と最低の差がすくなく、さらに旋回中は内側が失速によるバフェット、外は高速によるバフェットが起きるといった具合。U-2は当初CIAが運用していたが、戦略空軍から横槍が入る。横槍を入れたのはカーチス・ルメイ。
 1956年7月4日にU-2は初のソ連偵察飛行が実施される。パイロットはポケットに青酸カリの錠剤を入れて任務についていた。ゲリー・パワーズが撃墜されたのは1960年5月1日。ソ連が打ち上げたSA-2で撃墜されたことになっているが、直撃ではなく、迎撃しようとしていたソ連機に命中し、その衝撃波で尾翼が損傷したらしい。パワーズはアメリカに戻った後、各所で非難されたがケリーが気の毒に思ってスカンクワークスで雇った。
 
【第8章 危うし、バーバンク】
U-2の後スカンクワークスは1956年から水素を燃料とする偵察機の開発を始める。今度のスポンサーは空軍。この機体はCL-400と呼ばれいたらしいが、M2.5で3万m上空を4800km飛行する予定だった。胴体の長さは90m近かったらしい。しかし、航続距離がどうしても計画に届かず中止となる。
 
【第9章 銃弾より速く】
SR-71の構想が始まったのはまだU-2が撃墜される前、1958年の春頃。同時期に海軍での高高度を高速飛行する「ルーブ・ゴールドバーグ」計画や、また別にコンベアがB-58を母機として、そこから有人ロケット機を発射するという案もあった。ロッキードはA-1からA-10までの改良型を検討したが、A-11でようやくRCSが90%減少し、計画が大きく前進。これをもとにして再度検討しなおしたA-12の設計が出来たのは1959年の夏。ブラックバードが"ブラック"なのは機体の熱を発散させるため。材料として多く使われたチタンの主な輸入先は当時のソ連。ユフィムツェフの論文といい、ソ連のスカンクワークスに対する貢献は大きい。他にボルトやリベットもチタン製で、自前で作ったパーツは1300万点、タイヤもアルミ粉を混ぜた特別製のゴムで充填されるのは窒素ガス。燃料もシェル石油が作った特殊なもので、KC-135から空中給油する際はマイナス70度で、これがエンジンに供給される前には180度くらいになる。オイルは10-400くらいに相当するもので常温ではほとんど固体で、事前に暖める必要がらしい。エンジンはP&WのJ-58(の改良型?)。ロッキードはP&WのIBM710を借りて一部の機体設計を行ったとある。空気取り入れ口設計の試験に使用されたのはNASAエームス研究所の高速風洞。電力量が膨大なため夜間しか使用できなかった。
ブラックバードの設計グループはわずか75人というのは驚異的。設計方針は80%の効率が達成できればOKとするというもの。残りの20%を追求すると、50%増ののコストと時間が必要となるため。初飛行は1962年4月だった。
 
【第10章 離陸】
 ブラックバードはホワイトハウスやペンタンゴンの色々な思惑の中で、その計画も右往左往する。バックファイアの存在が明らかになったときには、戦闘機へ仕上げることが検討され、爆撃機への転用が考えられたときにはルメイ将軍お気に入りのB-70の計画にも影響を与えている。低空を進行するF-111が計画されたときには、高空からこのような機体を迎撃可能なことが示されたが、計画は覆られなかった。
 
【第11章 ハブの思い出】
ブラックバードのチタン製の外板は飛行ごとに高熱で焼入れされることになるので、完成当時よりも強度が増していたらしい。
SR-71が引退する時は大陸横断速度記録に挑戦し、ロサンゼルス・ワシントン間が64分、カンザスシティ・ワシントン間26分。2404マイル(3869km)を67分54秒で飛行した。
 
【第12章 チャイナ・シンドローム】
スカンク・ワークスはSR-71から発射する無人の偵察機も開発した。試験では計画通りに飛行し、カメラ部の切り離しと改修もうまくいった。しかし、1966年のテスト時に発射した無人機がブラックバードの機体を破壊し、墜落する事故が起きた。これ以降は母機をB-52にして開発され、中国偵察に使用されたが3回も回収に失敗している。そのうちの最初の失敗は機体の行方もわからないものだったが、15年後にソ連のKGBがクリスマスプレゼントとしてその一部をCIAに届けたという。本当か?
 
【第13章 奇妙な船】
ステルス技術の応用として、ソナー反射率の低い潜水艦を海軍に提案したこともあったらしい。海軍はまったく興味を示さなかったらしい。ケリー・ジョンソンが作ったスカンク・ワークス原則は明文化されているものが14カ条あるらしいが、言い伝えられてきた15ヶ条は「海軍と商売するくらいなら、飢え死にしたほうがマシだ。やつらは自分で何がほしいかもわかっていない。さんざん引きずり回されたあげく、心臓を悪くするのがおちだ」というものらしい。
また双胴の「シー・シャドウ」というステルス船も作成されている。しかし、RCSが背面のノイズよりも小さすぎたために、かえって位置が判明してしまうという問題があった。
 
【第14章 永遠の別れ】
ベン・リッチは1972年にノースロップから引き抜きの話を持ちかけている。しかし、ケリー・ジョンソンが説得し、踏みとどまる。同じ年に空軍から軽量戦闘機の競争試作の話があり、ケリーは空軍の初期の要求仕様(重量17000ポンド、燃料等裁量5000ポンド、翼面積275平方フィート)を無視し、独自の仕様(重量19000ポンド、燃料9000ポンド、翼面積310平方フィート)で設計をした。ロッキードは試作競争に負け、ジェネラル・ダイナミックスの機体が採用された。その機体がF-16として運用が開始されたときにはケリーの案とほぼ同じになっていた。
 
【第15章 二億ドルの爆撃機】
スカンク・ワークスがステルス爆撃機を計画を始めたときにはF-111規模だったらしい。その頃ノースロップは議会がF-20の台湾への輸出を承認しなかったため、大きな損失を出していた。その埋め合わせとしてステルス爆撃機の競争入札への参加を認めたとベンは推測している。その後計画は当初の中型機から大型機へと変更され、スカンク・ワークスの計画も設計変更された。当然ノースロップとはまったく別に進められていたが、あるときベン・リッチの机にあった模型を見た国家防衛委員会の議長が「おい、ノースロップの模型を、どうやって手に入れたんだ」と口走る。どうもかなり似たものだったらしい。最終的にノースロップ案が採用されたが、その理由はノースロップの方が爆弾等裁量、航続距離が優れているというものだった。ステルス性ではロッキード案が優れていたらしいが。
 
【第16章 正しい結論を導くために】
スカンク・ワークスのように官僚主義、管理強化を排除した組織は少ない。スカンク・ワークスのようなコンパクトな開発体制がコストの削減に繋がるとの主張。F-22も高価すぎる。整備方法についても問題があり、SR-71の整備はスカンク・ワークスなら35人で出来たが、嘉手納基地に配備されたときの二機のブラックバードのための整備員は600人だった。
SR-71が当初RS-71という名前で、ジョンソン大統領が読み間違えたために膨大な経費をかけて名前を変更したことは有名だが、それ以外にも機体にSR-71ブラックバードと書くために耐熱性の特殊な塗料を開発したとか、アリゾナでの砂塵テストを行うとか色々無駄なことをやっている。
 
【補章 指導者の立場から】
 

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