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局地戦闘機「雷電」 渡辺洋二 [書籍]

局地戦闘機「雷電」

局地戦闘機「雷電」

  • 作者: 渡辺 洋二
  • 出版社/メーカー: 朝日ソノラマ
  • 発売日: 1998/04
  • メディア: 単行本
 
個々の戦史もしくは戦果の記録や、詳細な技術が分かるわけではないが、関係者へのインタビュー、綿密な資料の調査、整理された文章構成で雷電がどのような経緯で開発され、どのように活躍したかの概要がよくわかる。写真も数は多くないが、鮮明で内容も興味深いものが多い。
 
【局地戦闘機の誕生】
局地用陸上戦闘機としては、ドイツから輸入したハインケルHe112B-0とHe112V5が最初に検討された。He112B-0は昭和13年の5月頃に到着したが、予定30機のところ12機で打ち切り。採用にならなかったこれらの機材はどう扱われたのか。スクラップ?
 
昭和13年秋、第十二航空隊から艦上機と陸上戦闘機に対する要求性能の所見書が出される。小福田租大尉はこの十二空付だった。陸上機の所見には敵攻撃機(爆撃機)を迎え撃つ局地防御機としてのコメントで、航続力と操縦性を多少犠牲にしても速度を最重視する、としているらしい。また機銃については7.7mmは威力不足だが、20mmは初速が小なので「百害ありて一利なし」とし、10~13mmが限度としている。
またほぼ同時期の13年9月、横須賀航空隊から局地戦闘機の性能標準案が軍令部宛に出された。これを受けて14年2月に軍令部で武装が異なる3案の性能標準がまとめられる。
 
堀越技師が海軍航空本部技術部の巌谷英一造兵少佐に招かれたのは14年の9月12日。しかし十四試局戦の設計計画要求書が三菱に届いたのは15年4月22日。
要求仕様の内容は次の通り
 
  1. 目的:敵攻撃機を阻止撃破するに適する局地戦闘機を得るにあり
  2. 形式:単発単葉型
  3. 主要寸度:特に制限を設けざるも、なるべく小型なこと
  4. 発動機およびプロペラ:昭和15年9月末日までに審査合格の空冷発動機/恒速プロペラ
  5. 搭乗員:1名
  6. 性能(特記せざるものは正規状態とす:性能要求順序を最大速度、上昇力、空戦性能、航続力とす
    1.  
      • 最高速度 高度6,000mにおいて325ノット(602km/h)以上。340ノット(630km/h)を目標とす
      • 上昇力 6,000mまで5分30秒以内。実用上昇限度11,000m以上
      • 航続力 正規状態、高度6,000m、最高速にて0.7時間以上。過荷重状態、高度6,000m、発動機公称馬力の40%出力にて4.5時間以上
      • 離昇能力 降着速度70ノット(130km/h)以下。降着滑走距離600m以下、なるべく小なること
      • 空戦性能 旋回ならびに切り返し容易にして、一般の特殊飛行可能なること
  7. 本機の強度類別はIX類とす
  8. 兵装 射撃:7.7mm機銃(弾数550発)2挺、20mm機銃(弾数60発)2挺。爆撃:30kg爆弾2個
  9. 艤装 無線電話機:96式空一号無線電話機。防弾:操縦員後方に8mm厚防弾鋼板。酸素装置、計器などは十二試艦戦に準じる
三菱の設計チームは、計算分担:曽根技師、櫛部四郎技師、小林貞夫技師、構造分担:曽根技師、吉川義男技師、土井貞夫技師、動力艤装分担:井上伝一郎技師、田中正太郎技師、藤原喜一郎技師、兵装艤装分担:畠中福泉技師、大橋与一技師、田中英雄技師、降着装置分担:加藤定彦技師、森武義技師。
 
昭和15年2月、堀越技師は翼面荷重135~140kg/㎡、翼面積19㎡と言う条件で、離昇1430馬力の十三試ヘ号改と離昇1200馬力の十三試ホ号で試算したところ、前者が最大速度583km/hだが後者は600km/hだったので、堀越技師はヘ号採用を考えた。正面面積は考慮されてはいたようだが、ラジエータの影響をどの程度見込んでいたか不明。ちなみにこの結果をもって、航空技術廠和田操少将らにも説明に行ったが4月の正式要求書では空冷エンジンが指定された。
 
1/8の模型を使った風洞実験では、十二試艦戦の抵抗係数0.00234に対し、0.00204となった。プロペラ後流を考えなければアプローチは正しかったと言うことか。
 
内翼は層流翼だが、これは藤野勉技師の数式に基づいて作られたとのこと。LB翼の発表が15年6月らしいから、同時期に同じような研究が三菱でされていたのか。
 
第1次木型審査は15年の12月26日に行われ、空技廠実験部の小福田大尉と横須賀航空隊の下川万兵衛大尉が出席。小福田大尉は一応視界改善を促したが、結局ははっきりとした改善要求を出せず、後の回想でもその点について後悔している。
 
昭和17年2月2日に空技廠で性能研究会が催され、推算された最大速度が要求値に達しないことから、プロペラ、銃身出口形状、単排気管の採用を検討することになった。単排気管はJ2M2で採用されるが、戦闘機では日本初になると書かれている。と言うことは戦闘機以外で先例があったということ?
 
1号機が完成したのは2月28日。実測重量は計画から+86kgの2191kg。
 
【苦難への道のり】
 初飛行は17年3月20日。VDMプロペラが壊れたので、一式陸攻のハブにY20のブレードを組み合わせたペラを使った。こんな組み合わせでも使えるんだな。
 
高度6,000mで574km/hの最大速度は計画値より低く、上昇力も計画値に届いていない。エンジンの出力が疑われたがここでは検証されていない模様。 エンジンは火星10型シリーズとして制式化され、雷電用は13型(MK4C)となった。これに水・メタノール噴射、燃料噴射装置を付けたのが20型シリーズで雷電用は離昇1850馬力の23型(MK4R)。
 
プロペラも改良され、電気式のVDMを4翅にして、ハミルトンの油圧式変更機構をVDMに取り付ける折衷案を採用とある。
エンジン、プロペラ、冷却ファンの変更で72kg重量が増加したので、重心位置調整のためエンジン取り付け面を10cm後退させ、カウリングも20.5cm短くなった。
 
J2M2の制式採用時期は諸説あるらしいが、複数の条件を考えると昭和18年後半頃らしい。
 
J2M2で問題になった振動問題は2種類あり、振動数の低い「ゴツゴツ」はクランク軸とプロペラの回転から生じる唸り現象が原因で、対策としてプロペラ減速比を0.54から0.5に変更し、プロペラの不平衡重錘の位相を選択した、とあるが後半は何のことやらよくわからん。
もう一つの「ビービー」振動は、同じくエンジンとプロペラの共振問題がおきていた銀河の対策を参考にして、効率低下を覚悟してプロペラを厚くして剛性を高めることで回避。これが行われたのは18年10月らしいから、やはりこの直後に制式採用だったのか。敗戦直前にエンジンの前列後列の主接合棒(コンロッド?)の位相が180度だったのを隣り合わせにすれば回避できることが分かったがとき既に遅し。J2M2の最大速度は高度450mで、596km/hが実測値。
 
J2M1のころ、陸軍、海軍の互乗研究会が行われ、荒蒔義次少佐が乗っている。印象としては視界はよくないが、ずんぐりした機体の割に舵の釣り合いが取れていて、乗りにくい飛行機ではなく、全体として「悪くない」という評価。二式単戦との比較では速度と旋回はJ2が優り、上昇力は二式単戦一型が上で、着陸もJ2M1の方が楽と言っている。
 
横空の飛行歴8年の羽切飛曹長の感想では、零戦なら6~7割で乗りこなせるところ、J2は100%の力を使う必要があったとのこと。後の紫電と比べても難しかったらしい。
 
【実戦部隊へ】
 J2M3が完成したのは18年10月。7.7mmが廃止され、九九式二号四型20mm+九九式一号四型20mmとなった。弾数はそれぞれ210発と190発のベルト給弾式。両方とも二号にならなかったのは生産が追いつかないためと、翼内スペースが足りなかったため。二号は一号より全長が10cm長く、弾丸自体も3cm長い。2割以上体積が多くなるとあるが、弾丸スペースを入れてのことか。
胴体内燃料タンクも外張り式の防弾タンクになっていて、当初は雷電改と呼ばれたらしいが結局は二一型となる。
 
昭和18年、射撃訓練中の山内三千人飛曹のJ2M2が空中分解する。機体は海中に没してしまったが、エンジン取り付け用クランク・ボックスの耳金がその前の落下着陸時にヒビを生じ、これが飛行中に切損したものと推測され、強化された。
 
戦闘601のB-24の攻撃法として考案された直上方攻撃では、弾道が下がり気味になるので20mm機銃をやや上向きに取り付けることを考案。この結果が良好だったので、11型の途中から4度上向きになるように変更された。
 
【高まる期待】
昭和19年に入って302空でも訓練が始まったが、零戦とは異質な特性であることもあって事故が頻発した。しかし、エンジン自体のトラブル、特に油圧系統の故障も多かった。302空整備主任吉野実大尉の見解では、「火星23型はいいエンジン」であり、トラブルが多かったのは「機体の構造とマッチしていなかったため」としている。具体的にどのようにマッチしていなかったかの説明はない。
飛行中は計器から目を離せず、常に油温計、筒温計に気をつけ、筒温が下がらないようにカウルフラップ操作が必要だった。しかし、それさえクリアすればトラブルに会わなかった人もいるらしい。
302空ではかの小園司令の肝いりで斜め銃装備の雷電も6、7機作られた。月光のように背中に背負うのではなく、胴体左側から翼端方向へ30度、上向きに10度の角度で、コクピット下の足掛けのそばから銃口を出した。
 
初空戦は台南空の青木中尉がP-38と行ったものになるようだ。
 
整備に携わった林少尉の弁では、雷電の整備はエンジンそのものよりも機体やプロペラを完調に維持するのが困難だったとある。これも具体的な症状の話しは無し。
 
横空から軍需賞に出された雷電と紫電の比較意見書の概要がある。

 

  • 最大速度:高度6000mにおいて雷電21型の330ノット(611km/h)に対し、1号局戦改は335ノット(620km/h)
  • 上昇力:雷電21型の高度6,000mまで5分50秒に対し、1号局戦改は6分
  • 対戦闘機戦:雷電21型は零戦に勝ち目なし。1号局戦改に対しても同様と思われる。ロッキードP-38、ベルP-39に対する格闘戦はやや有利だが、グラマンF6Fには相当の苦戦になるだろう。1号局戦改は速力と上昇力を利用すれば、零戦と五分五分か、それに近い程度に戦える。
  • 対重爆戦:雷電21型は火力、速力、上昇力、防弾のいずれも零戦に勝るが、航続力、視界、整備性(零戦の6割)の点では劣る。したがって零戦との併用が望ましい。1号局戦改は火力、防弾は零戦よりずっと優秀だが、整備性はやや劣る。

上昇力の6,000mまで5分50秒は三菱の測定で、海軍測定値は6分40秒となっている。ちなみに零戦52型は7分1秒。紫電11型は7分50秒、紫電21型は7分22秒。

航空本部は昭和19年1月に三菱に対してターボ過給機装備の試作命令を内示。21型をベースに機種を200mm延長し、エンジン後方のオイルタンクと機種下面のオイルクーラーをカウリング前縁に移動。またカウリングの開口面積を広げ、強制冷却ファンの直径を75cmから85cmに拡大。風防の後ろに20mm機銃を2挺追加。全備重量は500kg増しになったので、降着装置も強化したが、引き起こし時の負荷倍数は7から6に低下。これがJ2M4、雷電32型となる。

空技廠製のターボ付きは三菱製の前に完成、初飛行も空技廠製の方が早い。

火星23型の1段2速過給機の直径を大きくし、全開高度をアップさせたのが26型甲。これを装備して風防の高さを50mm、幅を80mm増やし、胴体上部をそぎ落としたのが33型。この改造で風防が開けにくくなったので、ハンドルを回して開閉するようになった。9月28日の小福田少佐による試験飛行では331.8ノット(614.5km/h)(高度6,585m)、高度8,000mまで9分45秒の値を残している。

【B-29との対決】
戦後英軍に捕獲されてテストされたのはシンガポールに残された元381空の21型。2機編隊の飛行中の写真も掲載されていて、ATAIU◎SEAがはっきり読み取れる。
 
厚木基地第302空の整備分隊長大沢徳吾郎中尉によると、火星は手を焼くほどのひどさではないが、まだ改善の余地があったとのこと。
 
寺村純郎中尉と山川光保一飛曹はそれぞれ、十分な機動力を保てるのはいいところ8,000mまでで、高高度ではむしろ零戦の方がよかった、と証言している。
 
B-29に対する初戦果は昭和19年の12月3日の邀撃戦で、中村佳雄上飛曹、杉滝巧上飛曹、坪井庸三中尉が記録。このときの杉滝上飛曹の搭乗機には2式30mmが付いていた。
 
昭和19年以降に作られた雷電は付け根が幅広のプロペラになり、「ようやく10,000mに上がれるようになった」(村上一飛曹)
 
横空審査部で志賀淑雄少佐の後任として紫電改を担当した山本重久大尉からは、紫電改と比較すると見劣りするのは否めなかったとの評。雷電担当の戸口飛曹長は紫電改は総合的には雷電より上だが、局戦の立場に絞れば雷電にはかなわない、上昇力は雷電が一番との評価。
 
空技廠製のターボ付きはタービン排気が尾翼に当たってバフェッティングがひどかったらしいが、小福田少佐の発案で整流板を取り付け解決した。
 
谷田部空で整備をしていた林英男少尉が一番悩まされたのは降着装置で、着陸時に先に着地した方の脚が折れることが多かった。これは三菱が補強を行って解決。
 
【邀撃戦たけなわ】
352空・乙戦隊で分隊長機に2本、小隊長機に1本のイナズマ塗装をすることを提案したのは栗栖飛長。分隊長の青木中尉はかなり気に入っていたとのこと。
332空相沢善三郎中尉のコメントでは、高度6,000mまでは6~7分で上がれるが、9,500mまでは20分以上かかり、その高度で水平飛行に移っても飛んでいるのがやっと、らしい。
302空の寺村大尉、坪井大尉は昭和20年の2月16日に利根川上空で4機のF6Fと空戦にはいり、1対2の空戦を2組行った。結果は被撃墜0で相手を1機撃墜。赤松貞明少尉がこの日F6Fを4機撃墜した模様も書かれているが、これは零戦を駆っての戦果。
 
高座工廠での製造は21型のみだったが、翼の工作精度が悪く、横空審査部の山本大尉が実測したところ、6~7ノットもカタログ値より悪かった。また302空の受領テストでは高度5,000からの降下テストで計器速度で400ノット出る機体が少なくなり、主翼がねじれる傾向があった。また高度7,000mから1,500mまで降下すると5機のうち3機はロールしてしまったらしい。横空から派遣された森上飛曹はテスト飛行中に空中分解事故にあったが、その報告された内容、残骸、生産中の機体を調べた結果、垂直安定板の取り付け角が狂っていることが判明した。
 
昭和20年1月から2月にかけて302空で空技廠製ターボ装備機がテストされた。着陸速度は120ノット(220km/h)にもなっていた。操縦席右側にあるレバーを引くと過給動作が開始したとあり。
352空は20年3月時点でターボ機が10機はあったが、操縦できるものは一人しかいないので、排気ターボなしか零戦52型丙と交換して欲しいとの機密電が送られた。
 
【終局への四ヶ月】
雷電による撃墜記録はB-29だけでなく、F-13もある。302空の坪井大尉もその記録を持つ一人。
302空村上義美一飛曹のコメント、「P-51のほうが速く、『雷電』ではかなり苦しい。味方はこれに最も多くやられた。P-51に比べればF6Fは振り切れるので、さほど恐ろしくなく、F4Uはどうということもなかった。」
このP-51を2機同時に撃墜したのは赤松中尉。この時は河井繁次飛曹長がサポートにはいっていたおかげもある。
 
5式30mm機銃を装備した33型改が332空で使用された。林藤太大尉が試射したときの記憶として給弾装置の不具合と発射速度の低さを挙げている。302空に配備された機体を山川光保上飛曹が試射したときには片側が故障し、撃つ度に機体が揺れたらしい。山川上飛曹は大口径機銃よりも弾道特性の良好な13mm機銃を6挺付けてくれた方がいい、と思っていた。
 
8月17日に鳴尾の332空の林藤太大尉、越智明志上飛曹が米艦艇に体当たりするため、に索敵を開始。しかしエンジン不調のため2機とも不時着または不時着水した。これが雷電の最後の戦闘行動。最後の日本人による最後の飛行は11月3日に332空の林大尉、渡辺光允大尉、松本佐市飛曹長、斉藤栄五郎飛曹長が33型甲4機を鳴尾から追浜への空輸。このときは既に星マークが入っていたらしい。
 
【参考文献】
 
航空技術の全貌〈上〉 (1976年) (わが軍事科学技術の真相と反省)

航空技術の全貌〈上〉 (1976年) (わが軍事科学技術の真相と反省)

  • 作者: 岡村 純
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 1976
  • メディア: -
 
航空技術の全貌〈下〉 (1976年) (わが軍事科学技術の真相と反省)

航空技術の全貌〈下〉 (1976年) (わが軍事科学技術の真相と反省)

  • 作者: 岡村 純
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 1976
  • メディア: -
 
海鷲の航跡―日本海軍航空外史

海鷲の航跡―日本海軍航空外史

  • 作者: 海空会
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 1982/01
  • メディア: -
 
福田機還らず (1965年)

福田機還らず (1965年)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: )福田貞三郎
  • 発売日: 1965
  • メディア: -
 
海軍中尉蔵元善兼 (1977年)

海軍中尉蔵元善兼 (1977年)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 蔵元政雄
  • 発売日: 1977/08
  • メディア: -
 
 
零戦開発物語―日本海軍戦闘機全機種の生涯 (光人社NF文庫)

零戦開発物語―日本海軍戦闘機全機種の生涯 (光人社NF文庫)

  • 作者: 小福田 晧文
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 2003/06
  • メディア: 文庫
 
大空の決戦 (新戦史シリーズ)

大空の決戦 (新戦史シリーズ)

  • 作者: 羽切 松雄
  • 出版社/メーカー: 朝日ソノラマ
  • 発売日: 1994/03
  • メディア: 文庫
 
  • 戦う雷部隊戦史/雷部隊戦友会/松永栄夫
  • 新兵器実戦記/羽切松雄/今日の話題社
  • 厚木零戦隊戦記/森岡寛/今日の話題社
  • 日本撃墜王/赤松貞明/今日の話題社
 
【文庫版あとがき】
十四試局戦の滑油冷却器の装備位置が不明とある。J2M1はカウリング下面に滑油冷却器用の空気吸入口がなく、かわりにカウリングの前半部が生産型よりも約20cm長いので、著者はこの位置に環状滑油冷却器を入れていると考えて、曽根技師に尋ねてみたがはっきりしなかったようだ。もう一つJ2M2はカウリングの長さが生産型と同じなのに、やはり空気吸入口がなく、いっそう冷却器位置がはっきりしないというもの。(1992年8月)
 
【新版のあとがき】
改版によって、加筆され当初のサンケイ版に比べて2倍ほど内容が増えている、とコメントあり。(1998年3月)
 

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コメント 3

りりか

こんにちは。
高座の工事で飛行機のエンジンを組み立ててたという身内がいました。(日本人です。)エンジンを最後にやすり掛けして組み立ててたそうで、その登時使用していたという金属用のやすりを見せて貰った事があります。
昔の事で細かい話を忘れてしまったのですが、おじは雷電のエンジンを組み立ててたと考えて良いのでしょうか?
by りりか (2011-12-30 22:35) 

ショウオー

滅多にコメントを頂くことはないので気がついていませんでした。
すみません。

高座工廠で雷電を製造していたのは色々な文献にも載っていますので間違いないと思いますが、エンジンの組み立てを行っていたというのは初めて聞きました。もしそうであれば興味深い話です。もしかしたらエンジン本体そのものではなく、周辺の補機の取り付けまたは機体への取り付けをされていたのかもしれませんね。
また「やすりがけ」をして最終組み立てたという部分についても、エンジンのどの部分かは定かではありませんが、現代ではありえない話で、当時の工作精度の低さがわかるエピソードかと思います。
いずれにしても貴重なお話ありがとうございました。
by ショウオー (2012-02-21 13:23) 

小宮山敏光(旧姓平野)

前略。 亡き父 平野光夫は丙種飛行予科17期出身で、第352航空隊に配属され雷電に搭乗していたことが判明しました。生前父は殆ど戦時中のことを語らず私が民間航空の操縦士になっても操縦技術についてさえ一言も語ることはありませんでした。そのため父の戦時中の軌跡を辿るのは困難を極め予科練記念館の小松崎一択様のご厚情がなければ厚労省の戦歴証明という極めて簡略化された情報では父がどんな機種に搭乗しどのような任務についていたかまで辿ることは不可能でした。「雷電」という著書の中に父の戦闘記録を見つけたときは思わず声をあげてしまいました。更に父のことを知りたく「雷部隊戦友会」の連絡先について教えて頂けないでしょうか?
by 小宮山敏光(旧姓平野) (2014-04-09 20:28) 

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