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最後の戦闘機 紫電改―起死回生に賭けた男たちの戦い [書籍]

最後の戦闘機 紫電改―起死回生に賭けた男たちの戦い
 
【プロローグ―初陣の日】
昭和20年2月26、27日に関東上空で行われた空戦では、日本側61機の損失に対し、米側は49機とそれぞれが報告している。この戦闘で横空の第2小隊長 羽切少尉はF6F1機を撃墜、第3小隊長の武藤飛曹長は同じくF6Fを2機撃墜し、横空全体では撃墜5、未帰還機1としている。
 
【第一章 大いなる助走】
川西は九四式水偵を境にそれまで設計の中心だった関口英二氏、戸川不二男氏らが辞め、九試大艇が始まるころに菊川静男氏らが主力になるようになった。
強風の設計を行った中心メンバーは菊原氏以外では、小原正三、馬場敏治、徳田晃一、大沼康二、井上博之の各氏。強風の設計では空技廠の「星型発動機の抵抗少なき装備法」という研究報告が参考にされた。たぶん雷電と同じ元ネタかな。翼型は菊原氏の親友である東京帝大航空研究所の谷一郎教授に依頼して開発したかのLB翼。フィレットの形状決定では実大のテストを行う風洞が無かったため、ある程度適当に決めてしまったらしい。しかし、ルートストールが発生し、この乱流が方向舵に振動を与えた。この対策として大きなものに変更したところ、今度はパイロットの足がかりがなくなることになったので、さらに外側に膨らんだものにした。不恰好なフィレットはこのため。強風の最高速度は高度4000mでの492km/h(266ノット)。ちなみに7.7mm機銃は対戦闘機戦のものではなく、上陸作戦時の地上軍に対する攻撃用。自動空戦フラップを装備する前の模擬空戦では二式水戦にかなわず、雷電と互角だったとある。強風がすごいのか、雷電がだめなのか。自動空戦フラップの試作品が完成したのは18年の5月。操縦系統の腕比変更装置は最初は3舵につけたが、テストの結果方向舵は不要となったので、昇降舵と補助翼のみに採用されている。
 強風改造の陸上戦闘機を開発する話が出たのは開戦直後。17年の正月休み明けに航空本部技術部長の多田力三少将に直談判し、了解を得る。すぐに社内名称X-1で開発がスタート。問題となった脚はプロペラと地面のクリアランスを最低でも20cmとるために取り付け部の回転中心から車輪中心まで1751.5mmが必要とされ、これを主翼に格納するためには1366.5mmに縮める必要があった。その差は385mm。
キ-43、A6M5、キ-84、紫電、F6Fの主要諸元の比較表があるが、この中でキ‐84との比較が興味深い。全幅は1m大きく、翼面積も10%大きい。全備重量も10%近く重いので翼面荷重は同じくらいのはず。エンジンが同じ誉ということからすれば、運動性は似たようなものでも、最高速、上昇力は疾風が上だろうな。まぁ、どこまでこの数値が正確かわからないけど。
主翼のねじり下げは零戦がサインカーブなのに対し、フラップ及びエルロンの蝶番中心がそれぞれ直線で、フラップの外側で上反角が変わっているように見える付け方、ってあるけどイメージしにくい。 桁はモノスパーで胴体に対し直角で、零戦が片翼の途中でつないであるのに対し、川西は専用の工作機械で削りだすことによって片側は完全な一本としている。この機械は川西が自ら開発したもので桁フライスと呼ばれ36台作られた。戦後奇跡的に残った1台はPS-1やUS-1の桁を作るのに使われた。
機銃の発射時の反動の話が少しあり。20mmや30mmの発射時の反動は翼全体に分散させられるようになっていれば、それほど大きな影響はなく、飛行中の風圧によってかかる力の方がはるかに大きいとのこと。
 
【第二章 難問への挑戦】
紫電の初飛行は昭和17年12月31日。最初は川西の乙訓飛行士が乗る予定だったのを、強引に帆足工大尉が乗り込み、地上滑走だけの約束を破ってそのまま飛び上がった。帆足大尉は半年後、雷電のテスト飛行中に事故で亡くなる。その雷電の初飛行は17年3月20日、紫電の母体となった強風は一ヶ月半後の5月6日なのでほぼ同期の機体と言っていいらしい。
強風の審査報告で自動空戦フラップの必要性がクローズアップされてから、強度試験場係長の清水三郎氏が中心になって開発が始まり、3ヶ月後の18年5月に試作品ができた。その後量産向けに改良が続き、最終的には片手に乗るくらいのコンパクトなものになった。速度により上下する水銀をフラップの開度の制御に使っているのは有名だが、その精度はフラップの0°から30°で水銀の上下する範囲は最大7mmくらいまでとある。動作原理図も掲載されている。
烈風に搭載されたものは同じ清水氏が発案したものだが、海軍で試作したもので紫電に搭載されたものとは異なるらしい。
また紫雲から続いていた親子式フラップは、子フラップの効果があまり見られなかったので紫電以後廃止された。
 
【第三章 俊翼飛ぶ】
紫電の低翼化の検討が始まったのは、紫電の初飛行の2ヵ月後とあるので、18年の2月下旬頃か。紫電、紫電改の胴体断面の図もあり形状の違いがよく分かる。低翼化により2段伸縮式の脚も短く、単純なものに変更されたので脚関係だけで100kgも重量が減ったそうな。脚の長さは1.752mから1.424mへ、間隔も4.450mから3.855mになった。
紫電改の完成は18年12月末、初飛行は川西の岡安飛行士により1月1日に行われた。海軍側のテストは志賀淑雄少佐による。急降下テストが行われたのは19年3月はじめ。段階的に行って計器速度で430ノット(796km/h)まで確認された。
配備が始まってから、川西の整備班にパイロットは紫電は零戦より弾丸の命中率がよいと語ったらしい。11型の7.7mmを廃止してガンポッドを吊り下げたのが11型甲。ただし7.7mmの機銃口そのまま残された。11型甲は鳴尾工場の251号機から550号機まで、姫路工場では51号から250号機まで作られた。11型乙はベルト給弾式になって4挺とも翼内装備となった。
機銃の取り付け角度調整はそれまではっきりした基準が無かったのを、17年秋に横空戦闘機隊隊長の花本清澄少佐の提案で最適角度を求める事件が行われた。その結果は上下左右ともに機体の軸線前方200mで交差するようにするのがベストと結論付けられた。九九式一号20mm機銃は500m先で1.5mの弾道低下があったそうだが、二号銃はその半分だった。
志賀少佐の提案で機体に13mm機銃をつけた試作機も作られた。ただし計画では2挺だったが、実際付けられたのは1挺のみ。これは31型、N1K3-Jと呼ばれたとある。
 
【第四章 戦火の中で】
紫電改用に納入される誉は呉十一空廠でも製造されたらしいが、中島荻窪製に比べて品質が劣ったらしい。
学徒動員された女学生の手記もいくつか掲載されているが、皆「P1という戦闘機」、「H8という輸送機」、「P1Y2Sという二人乗りの特攻機」というように記号で呼んでいたらしい。
 
【第五章 終焉のとき】
烈風を試乗した志賀少佐の印象は、重い手ごたえの紫電改に対して、零戦に似た滑らかな操縦感覚というもの。
志賀少佐が病気で入院した後任は山本重久大尉で紫電改のテストを続けた。この山本大尉に烈風のテストをしていた小福田少佐が次期艦戦に紫電改が使えないか相談し、ここから艦戦化の話が正式なものに繋がったようだ。着艦フックの追加、それに伴う尾部胴体の補強、フラップ角度の増加を行い、N1K3-Aとなる。ちなみに誉23型に換装したのはN1K4-A。信濃への着艦テストは19年11月に行われた。
343空では通信システムも重視されたが、当初はやはり機上無線では50km程度までしか聞こえなかった。それを横須賀航空隊の塚本大尉がシールドを工夫し、雑音を減らす技術指導した結果、10倍の距離まで使えるようなったとある。
301飛行隊の訓練中に空中分解事故が発生。菊原氏らが事故調査に当たったが、原因不明のまま終戦を迎えた。著者は対気真速度800km/hを超えたために、部分的に音速に達し、衝撃波が発生したのではと推測している。
東大航空研究所の小川太一郎、谷一郎博士が計画した、パルスジェットを動力とした特攻機設計のため、特攻機設計のため、空技廠へ菱田一郎、金崎正、多賀拓平、小原正三ら7名が横須賀へ赴任。
終戦後、大村基地から紫電改を横須賀へ志賀氏が空輸したが、途中巡航飛行するF6Fが追いつけなかったとある。
また、戦闘402、403の紫電も姫路から横須賀へ3機の紫電を空輸したそうだ。
 
【エピローグ】
著者は1969年に空軍博物館とウイローグローブ海軍航空基地に展示されている紫電改を見たらしいが、紫電の消息は分からなかったらしい。日本では愛媛県沖から引き揚げられた紫電改があるが、これは展示にあたって新明和の工場で修復された。また、宮崎県にも紫電改に搭載されていたエンジンが海中から引き揚げられたとある。この誉はいまどこ?

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