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祖父たちの零戦 神立尚紀 [書籍]

祖父たちの零戦

祖父たちの零戦

 
 
 
 
 
 
新藤三郎少佐、鈴木實中佐を中心にした零戦にまつわるエピソード集といった感じ。技術的な議論や空戦の詳細、機体の説明や比較などはほとんど無し。この手の本では大抵緒戦の頃から始まり終戦までで終わっているが、本書は戦後の仕事の内容から最期の模様まで続く。
 
【第一章 黎明】
初戦の中国大陸の話。
中国で零戦と交戦した相手側機体を「E15」、「E16」としているが、これはI-15,I-16もしくはイ15、イ16のことだろう。新藤氏は戦中に父親に「軍極秘」の書類を預け、昭和53年にそれが保存されていたのを再発見する。この書類は鈴木氏、志賀淑雄氏を始め、零戦の初空戦に参加した13名の内の岩井勉、藤原喜平、三上一禧の各氏、それに角田和男氏に贈られた。
新藤氏の回想で、零戦は座席の上下調整機構のおかげで前方視界が九五艦戦や九六艦戦に比べて広く、離着陸が楽になったとあり。ちょっと意外だった。
三上二空曹は昭和15年7月に十二試艦戦の高高度実験を行った。結果は1万900mが限界だった。
新藤氏が昭和11年ごろ、空戦訓練の相手をしたのが蝶野仁郎一空曹。この時にひねり込みを体得したらしい。ひねり込みは源田サーカス、岡村サーカス両方にいた望月勇一空曹が発案したとしている。
初戦では日本側が中国軍側の裏をかき、一旦引き揚げたと見せてデモンストレーションを始めたところを攻撃したというのが通説だが、本書では中国側の徐中尉の証言で、実は零戦が来ていたことに気づいておらず、別の空域に向かうところを攻撃されたとしている。
鈴木氏が初めて零戦に乗ったときの感想では、安定性が非常によいとの印象。九五艦戦や九六艦戦では操縦桿から手を離して飛ぶなど出来なかったらしい。
 
【第二章 奮迅】
真珠湾攻撃。
被弾して敵格納庫に突入したことになっている飯田大尉機だが、実際はカネオヘ基地の格納庫から1キロほどはなれた隊門に近い道路脇地面に堕ちたらしい。
真珠湾攻撃の直後に行われた台湾からのマニラ進撃については、計画時に航続力については軍内部でも疑問の声があり、最初は空母の使用が検討されていたのを現場指揮官が覆す形になった。その際に三空飛行長の柴田中佐の提案で燃費試験が行われ、どんな搭乗員でも毎時90リットル以下に抑えることが可能なことを実証した。P-40との戦闘では相手の性能の悪さにびっくりしたとあり。
 
【第三章 逆風】
ラバウル戦線。
603作戦前に204空では18年5月28日から飛行隊長・宮野善治郎の発案による1個小隊4機編成の訓練を始める。
 
【第四章 完勝】
 スピットファイアとの戦闘。
鈴木少佐が飛行隊長を務める202航空隊では、ポートダーウィン攻撃の前に隊長命令で全員髭を伸ばすことになった。見た目の迫力を出すためらしいが、酸素マスクをつければ見えなくなってしまうと後で気づく。コールドウェルと鈴木両氏はともに1910年生まれ。昭和18年5月2日の戦闘結果はスピットファイアの被撃墜5機(2名死亡)と燃料不足で5機、エンジントラブル3機の損失。零戦は7機が被弾したのみ、となっている。6月30日の戦闘では、一式陸攻24機の護衛のために27機が出動。日本側は被撃墜0(一式陸攻搭乗員2名が機上で戦死)、スピットファイア6機の損失。
 
【第五章 落日】
マリアナ沖海戦から特攻、終戦。
一航艦参謀長・小田原俊彦大佐が語る大西中将の特攻の真意。レイテから敵を追い出し、講和の機会を作る。日本本土での決戦を避けるためにフィリピンを最後の戦場にする。しかし今講和の話をしてもまともに取り上げられない。特攻それ自体の成功の見込みは無いが、天皇陛下がそれを知れば戦争中止を口にされる可能性がある。またどんな型で講和になっても、身をもってこれを防い若者たちがいたという事実と、それを知って天皇陛下自らが戦争を止めさせたという事実があれば500年後、千年後必ず日本民族は再興する。
 8月15日連合軍艦上機250機が関東上空に来週。厚木の302空の零戦52型丙8機、雷電4機、茂原基地からの252空戦闘304飛行隊零戦52型丙15機がこれを迎撃。302空はF6Fを4機、252空がシーファイア1機とファイアフライ(アベンジャー?)を撃墜。302空は零戦1機と雷電2機、252空は零戦7機が撃墜された。
 
【第六章 焼跡】
鈴木少佐は第205海軍航空隊・石垣島派遣隊の指揮官として終戦を迎える。台中基地に零戦を運ばされた後、そのまま機体を中国軍に渡し、高雄基地で中国軍パイロットの訓練を行った。
 
【第七章 変容】
坂井三郎氏は戦後香文社という謄写版印刷会社を営んでいたが、この名目上の社長は大西瀧治郎中将の未亡人だった。この人は笹井醇一中尉の母の妹でもあり、坂井氏が社長に招いた。「坂井三郎空戦記録」の執筆を依頼したのは日本出版協同株式会社の福林正之氏。福林氏は奥宮正武氏とも面識があり、その関係から坂井氏が紹介された。坂井氏が選ばれたのは当時東京にいて連絡の取れる者というのが理由だった。坂井氏も最初は依頼を断ったそうだが、説得され福林氏が坂井氏の話を聞いてまとめたのが先の本になる。その際に連絡が取れない関係者に配慮し、意図的に戦闘の順序を入れ替えたり、人の名前を仮名にしたりしたそうだ。
坂井氏は本が縁で米極東空軍のフランク・カーツ准将と面会する。その会話の中で昭和16年12月10日零戦がB-17を撃墜したときの話題が出た。台南空戦闘行動調書ではB-17を撃墜したのは豊田光雄飛行特務少尉、菊池利生一飛曹、山上常弘二飛曹、和泉秀雄二飛曹、野沢三郎三飛曹の協同と記録されているらしいが、この会談が一人歩きしてB-17を初めて撃墜した坂井という伝説が生まれた。
またこの会談の通訳を務めたのがフレッド・サイトウ氏で、坂井氏から聞いた話をマーチン・ケイディンという人物に伝える。その後彼がその話を元に1957年に「SAMUAI!」という本を出版、ここからエースパイロット・サカイという肩書きが広まった。撃墜数についても坂井氏自身は具体的な数を出したことがなかったそうだが、この本の売り文句のため64機という数が作られた。この64は宮本武蔵の真剣勝負の回数に由来したもので、坂井氏の実戦闘記録とは何の関係も無い数字だった。
「大空のサムライ」はこの「SAMURAI!」の逆輸入版だが、内容の脚色が多すぎるので全面的に書き直された。これが出版された後にはゼロ戦ブームが到来するが、他の元搭乗員には戸惑い、反感も多かった。また343空時代にも坂井氏に反発するものは少なくなく、中でも戦闘301飛行隊の杉田庄一上飛曹はガダルカナルからの生還についても眉唾だと公言していたらしい。
 
【第八章 蒼空】
343空飛行長の志賀淑夫氏は軍の密命により、戦後占領軍によって万が一、天皇の身に何か起きた場合に備え、皇族を匿い皇統を護持するための任務についていた。この任務には343空の元隊員20名ほどがあたり、中心だった源田實から任務解除が伝えられたのは昭和56年だった。
 

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