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航研機 富塚清 [書籍]

航研機―世界記録樹立への軌跡

航研機―世界記録樹立への軌跡

メインの文章は富塚氏が書かれたものだが、出版されたのは逝去された後関係者が編集しなおしたもの。
 
写真
著者本人の肖像を含め9ページ。製作中の航研機もあり。
 
【航研機の世界記録とその時代】(山本峰雄)
世界記録と国際記録は異なるもの。航研機の周回航続距離記録11651.011Kmは世界記録、1万Kmの周回平均速度186.197km/hは国際記録。他の日本の国際記録は戦後の富士重工KMスーパー・ニッコウ号が作ったC1C級陸上機の高度記録9917mがあるくらい。
 
【第1章 飛行機の進歩と競争史】
ライト兄弟が1903年12月17日行ったフライトの最長記録は向かい風の中59秒、260mだった。ドーバー海峡横断横断に成功したのはブレリオで、1909年7月25日に達成。距離38kmで所要時間37分なので、時速62km/h。使用機体はアンザニ式3気筒扇形25馬力エンジンを載せたブレリオ式単葉機。
日本の初飛行は1910年12月。陸軍の徳川大尉のファルマン式は高度40m、距離3280m、航続時間4分。日野大尉のグラーデ式は高さ20m、距離1200m、航続時間1分20秒。
少し戻って1909年8月22日、フランスで開かれた航空競技会の記録は次のような感じ。航続距離180km、航続時間3h4m50s(ファルマン複葉機)、速度はカーチス複葉機90km/h、高度はアントワネット機の150m。これが数年後には飛躍的に性能向上する。1913年の9月29日のゴードン・ベネット杯でのドペルデュッサン単葉(ノーム気筒回転型160馬力)が時速203.85km/h。高度記録はメルセデス6気筒列方100馬力のDFV飛行機が7850m(1914年6月10日)、距離は周回でアンリ・ファルマン(ノーム気筒回転型80馬力)が1021.2km(1913年10月13日)。更に第1次大戦をはさむと更に向上すし、速度では1920年2月7日にニューポール・ドラージェ(イスパノ・スイザ8気筒V型水冷300馬力)の275.264km/hを記録。高度はリバティ400馬力装備のルペール機が8810m(1918年8月20日)、周回距離はサルムソン230馬力の双発ファルマン・ゴリアートが1872km(1919年9月9日)。直線距離では1919年6月にヴィッカース・ヴィミー(RR350馬力の双発)が大西洋横断3040kmを達成、となる。
もう少し下って1924年にはイスパノ・スイザ450馬力のフランスベルナール機が448km/hを達成するが、この後はしばらく(1927~1934年)水上機が速度記録を更新することになる。リンドバーグのニューヨーク・パリ間の飛行は1927年5月20日から行われ、時間33時間30分、距離5809kmだった。スピリット・オブ・セントルイスはライアンNYPでエンジンはライトホワールウィンド空冷星型9気筒200馬力。リンドバーグは駒場の東大航研も訪問しており、富塚氏らが創案した操縦者能力試験装置を試している。その結果は素晴らしいものだったそうだが、本人の許諾を得ていないので公開できない、らしい。
太平洋横断はハーンドン・パングボーンの二人が1931年10月6日に達成。飛行距離は7910km。
 
【第2章 日本の航空技術と東京帝国大学】
陸軍の発案により臨時軍用気球研究会が出来たのは1909年。委員は陸軍の井上仁郎、徳永熊雄、有川鷹一、日野熊蔵、笹本菊太郎、海軍から山屋他人、相原四郎、小浜方彦、奈良原三次、東京帝国大学から田中館愛橘、井口在屋、気象台から中村精男となっている。
 1914年第一次世界大戦が始まった頃、日本陸軍の操縦将校は14名に過ぎず、使用可能な機体もモーリス・ファルマン(ルノーV8空冷70馬力)など16機だけ。チンタオ攻撃に使用され、67日間の間に86回飛行、総飛行時間89時間となっている。
戦中、それまでロータリー式が主流だったのが、燃料消費量の多さやジャイロ効果による操縦性への悪影響から、固定式に移っていく。機体のほうも空気力学の観点からの研究が本格的になっていくが、当初は他の分野からの専門家が転入してくる。そのうちの一人がフランスの元土木が本業でエッフェル塔の設計者でもあるエッフェル。土木には水力関係の技術も科研刑するところから空力学への転進だったようだ。エッフェルはエッフェル式風洞というものを作ったそうだが、詳細は説明なし。
 
【第3章 東京帝国大学航空研究所の発足】
臨時軍用気球研究会に参加していた東大から1916年、独立の研究機関設立について文部省に建議書が出される。それを受けて航空学調査委員会が設けられた。委員は田中館愛橘、横田成年、田丸卓郎、井口在屋、栖原豊太郎、木戸小六の6博士。委員会の役割は研究所や講座の設立準備だが、エンジンを富士山頂に運びあげての高地試験などもおこなった。
航空研究所の公式発令は1918年。また工科大学に4講座、理科大学に1講座、航空関連講座が置かれた。 研究所の場所は深川区越中島というところ。当初格納庫も航空機もなかったそうだが、その後デ・ハビランドDH4軽爆撃機(RRイーグル9)、エンジン単体でリバティV12水冷400馬力が発注された。
関東大震災を受けて、1930年に駒場に移転。風洞部、飛行機部、発動機部、物理部、化学部、機械部、測器部などが設けられた。航空関係の研究は欧米がかなり先行していたので、ネタ探しに苦労したそうだ。
 
【第4章 所長交代と長距離機案突発】
1932年、所長交代の裏事情に絡んで長距離記録機製作が発案される。その裏話がイマイチ明確に書かれていないが、所員にとっては寝耳に水であったらしく、少なくとも皆が賛同して計画されたものではなかったらしい。しかし新規に航空ディーゼルエンジンを開発、2年で世界記録を達成するための費用として24万円を文部省に申請していたので、やらざるを得なかったようだ。ただ筆者らは計画開始にあたっては、まずそのディーゼルエンジンの新規開発を撤回させ、既存のエンジンの改良で済ませるということに落ち着かせた。
職務担当は主翼が深津了蔵、補助翼が谷一郎、プロペラ河田三治、燃料槽や車輪カバーは山本峰雄、胴体、脚、尾翼関係が小川太一郎、 木村秀政、広津万里。これに発動機関係として高月龍男、中西不二夫、富塚清、西脇仁一、石田四郎、渡部一郎の名前がある。また計器自動操縦は佐々木達治郎、燃料及び潤滑油が永井雄三郎となっている。
 
【第5章 計画の実施】
航研機の話が出たのが昭和7年、案がまとまったのが9年ごろ。軍の協力が必要であったが、海軍は批判的、陸軍は協力的だった。その流れからだと思われるが、使用エンジンは川崎航空機で作っていた中古のBMW9型(公称715馬力)を改造することに。機体の方は川西が乗り気であったらしいが海軍への気兼ねから話はなくなり、かわって東京瓦斯電気工業が名乗りを上げる。全金属製の機体作成の経験はなかったらしいが、現場にドボォアチンで働いたこともある工藤富治という人物がいたことでここに決まった。
ベースエンジンになったBMWは正式名称ハ-9II乙で、160mm×190mm(主)、199mm(副)、行程容積47リットル、毎分回転数1680、平均有効圧7.2kg/平方cm、馬力当たり重量1.01kgというスペック。これを毎分1800回転にあげ、気化器を中島二連八八甲型気化器ににしてリーンバーンタイプにする。そして過熱に対応するため、バルブを中空にし、空冷化している。既にその頃金属ナトリウムを入れた冷却が優勢になりつつあったが、航研での実績があったため空冷を採用。さらに過給機は取り外し、三菱で作っていたファルマン式の傘歯車減速機を取り付けた。ちなみに当初の計画にあった航空用ディーゼルは別に航研で検討されており、三菱重工の強力で1934年に水冷2サイクル90度V12を試作している。このエンジンのスペックは155mm×200mm、公称回転1500rpmで750馬力だった。 航研用の改造エンジンは合計3台作られたようで、完成までに2年10ヶ月かかったとしている。使用燃料も特殊で化学部の強力で100オクタンに近いものが使用できたようだ。最終的なスペックは最高出力870馬力、燃料消費率は1馬力1時間当たり約180g、空燃比17~18、オイルの消費量は1時間1馬力当たり5g程度でディーゼルと比較してもそん色ないものだった。中空の排気バルブは著者が担当したものらしく、詳しい構造、実物の写真も掲載されている。
 工長となった工藤氏は単桁構造のドヴォアチーヌD33の工法に精通していたこともあって、航研機もその影響を強く受けることになった。前者が全幅28.00m、全長14.40m、翼面積78㎡、650馬力に対して、後者はそれぞれ27.93m、15.06m、87.3、800とよく似ている。翼型は風洞部の深津了蔵、谷一郎の両氏によって決められた厚翼のもの。内部は単桁だが、捻り剛性をあげるため大圏構造っぽい斜めの補強材が入っていて、特許も取得されたらしい。また胴体や中央燃料タンクに枕頭鋲が採用されている。プロペラのピッチは固定で900rpmで回転させていた。
製作で最も苦労したのは脚で、ロープによる巻き上げ式の引き込み脚だった。単純に内側に畳むと桁と干渉してしまい、後に跳ね上げると完全に収容できなくなる。どちらも妥協できなかったため、一旦後に上げた後内側に畳むことになった。この動作が当初うまく稼動せず、改良のために1年を要したらしい。実際に機体が完成してテスト飛行中、脚がうまく出なかったため一度は胴体着陸をしている。結局本来の設計担当だった飛行機部では解決できず、改良を行ったのは筆者らの発動機部だった。
 
【第6章 航研機記録飛行】
記録飛行に当たっては食料についても工夫がされた。これには戦後栄養学者となった陸軍の川島四郎主計少佐が担当したとのこと。
飛行経路は木更津(飛行場)→銚子(灯台)→太田(中島飛行機)→平塚(灯台)の順で、カッコ内の目標を目印に周回した。
こぼれ話として、記録飛行に木村秀政氏が飛行の指示をだすために同乗したいとの申し出があったとある。本人の本当の意図は書かれていないが、却下されたようだ。
飛行開始は昭和13年5月13日の金曜日、午前4時55分。コースを29周し、15日の19時20分に着陸した。記録達成を祝って何度も祝宴が開かれ、天皇陛下との単独拝謁も行われた。
 
【第7章 航研機の回顧と反省】
組織として正確な、かつ詳細な記録を残すという作業が行われなかったこと大きな反省点として指摘している。特に計画の遅延を招いた脚の設計では、その担当者だけでなく、経験の少ないものに担当を割り当て、さらにその後十分な指導を行わなかったことを指摘しているが、これなどはどこの世界でもありそうな話。また記録挑戦を1度で止めてしまったことも確かにもったいない。1回目の飛行では後3周1200km分の燃料が残っていたそうだ。
ただ、多少のテストは行われており、操縦席も通常型の風防をつけたり、金属製の3翅ペラに変更したりしている。もっともその結果の詳細は書かれていない。その後は羽田の格納庫の隅に放置され、戦後他の機体と一緒にスクラップにされた。研究所自体も1946年に航空禁止令により廃止され、理工学研究所となる。1958年に航空研究所として復活し、1964年に宇宙航空研究所となる。それも1981年には宇宙科学研究所と境界領域研究施設に分離、校舎は1988年に廃止されるが、その前にそこから先端科学技術研究センターが派生している。
 
【あとがき】
1983年12月14日の日付。
 
【編集後記】(栗野誠一)
富塚氏が内容自体は1983年に出来ていたらしいが、出版までは行われなかった。出版に当たっては富塚氏の元の文章から個人的なトラブルに触れた部分は省かれたようである。逆に図面、写真などは含まれていなかったので関係者から提供を受けたとある。
 
【引用文献】
日本民間航空史話 (1966年)

日本民間航空史話 (1966年)

  • 作者: 日本航空協会
  • 出版社/メーカー: 日本航空協会
  • 発売日: 1966
  • メディア: -

 

『日本航空学術史』(1910-1945) 日本航空学術史編集委員会編 丸善(1990年)

『航空五十年史』 仁村 俊 鱒書房(1943年)

 
 

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