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プロペラ飛行機の興亡 黒田光彦 [書籍]

プロペラ飛行機の興亡

プロペラ飛行機の興亡

  • 作者: 黒田 光彦
  • 出版社/メーカー: NTT出版
  • 発売日: 1998/07
  • メディア: 単行本

 
人が飛行を試みた黎明期からWWIIあたりまでの発達史といった感じか。飛行機械そのものだけでなく社会的なエピソードもあり読み物としてもそれなりに面白い。しかし、あちこちのページに掲載されている、いかにもメモ的に書かれたイラストはいかがなものか。
 
【1章 プロペラ飛行機の夜明け前】
モンゴルフィエ兄弟の熱気球が成功したのが1783年。気球に動力をつけて自律的に移動できるようになったのは1852年のフランスはジファールの気球。この具体的な形態の説明はないが、「怪しげな蒸気機関と怪しげなプロペラ」が使われていたとのこと。動力としてはじめてガソリンエンジンを使ったのはサントス・デュモンらしく、1898年にエッフェル塔一周に成功。
また成功したかどうかはともかく、人間が乗って飛ぶことを意図した飛行機械を作ったのはロシアのモジャイスキーだったらしい。こちらも具体的にどんな形態かという説明はないが、蒸気機関だったのは確か。
グライダーの作成、飛行実験を行った初期の例として模型で有名なケイレイの名前がある。リリエンタールの功績は翼断面形だそうだ。それまではほとんどが「板」だった。
アデールの飛行機械「エオール」は蒸気機関が動力だったが、燃料は石炭ではなく石油を使っており、機体の出来に比べるとエンジンとしてはそれなりに洗練されていた。ちなみに当時の蒸気機関車はコンデンサーがなかったらしいが、このエオールの蒸気機関はコンデンサーを備えていた。出力は20馬力、機体の重量は500kgぐらいなので離陸できない出力重量比ではなかったようだ。
機関銃で有名なハイラム・マキシムも飛行機械を作成しており、出力180馬力で機体重量3.5t、翼幅30mだったらしい。こちらも出力重量比で決して飛び上がれない値ではないが、やはり機体設計がまずかったようだ。 
動力物語 (1980年) (岩波新書)

動力物語 (1980年) (岩波新書)

  • 作者: 富塚 清
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1980/03
  • メディア: 新書

【2章 初めて飛んだライト兄弟】
ライト兄弟が作成したエンジンは直列4気筒の水冷で、ラジエターは右翼の支柱に沿って取り付けられた鋼管。シリンダーブロックは鋼板の溶接組み立て、カムとプッシュロッドで動く排気弁はあったようだが、吸気弁は一方向に流れるだけのものでガソリンは垂れ流し状態。プロペラの減速比は3.5で200rpmとのこと。
ラングレー教授の機体に使われたエンジンは「一説には」5気筒、星型ロータリーで空冷。出力は30馬力を超えていたらしい。どこかの博物館に保存とか復元されていなかったけ?
ライト兄弟の機体は陸軍通信隊に売れた。一方、カーチスは海軍の飛行船用にエンジンを納入していた経緯からか水上機として海軍が購入。エンジンはV型8気筒で50馬力は出ていた。
これほど有名で、功績もあるライト兄弟をテーマにした映画はまだ作られていない、らしい。
 
【3章 ライト兄弟に続いた人たち】
1909年から1914年頃までのヨーロッパの話。
フランスではこの時期にすでにエンジンの専業メーカーがあった。最初に成功したのはアンザニーの3気筒扇形25馬力。モーターサイクル用から発展。これは1909年に英仏海峡横断に成功したブレリオ11型に使われていたもの。サイドバルブ式で空冷。横断中にオーバーヒートしかけたが、雨が降ってきて何とか助かった。距離38km、時間32分は前年にライト兄弟が行ったデモフライトよりも短かった。宙返りに初めて成功したのもこのブレリオ11で、1913年のこと。ブレリオ11は日本陸軍も購入している。
 この頃のもうひとつの傑作機として、徳川大尉が日本発飛行で使ったアンリ・ファルマンが名がある。操縦桿とフットバーを使った3舵の操作法が確立されたのはこの機かららしい。エンジンはグノーム・ル・ローンの9気筒ロータリーエンジン。ロータリーエンジンの利点として、フライホイールが不要、振動軽減に有効とある。しかし回転にすることで冷却に有利というわけではない。弟のモーリスが作ったモーリス・ファルマンはルノーの空冷V8エンジン。こちらは日本も購入し、チンタオ攻略戦に使った。
ロータリー・エンジンはその後14気筒の180馬力まで発展し、1913年にドペルデュッサンが200km/hを超えた。
1913年5月に初飛行したシコルスキー設計のル・グランドはサイズ的にはB29に匹敵し、100km/hで高度1000mの飛行が出来た。エンジンは最初アーガス水冷直列6気筒の100馬力を4基装備、最終的には200馬力のエンジンになった。
 
【4章 第一次大戦とプロペラ機】
初めての軍用機はルンプラー・タウベとある。エンジンはダイムラーの直列6気筒の100馬力。遠距離輸送時は分解出来る機能があったらしいが、組み立てにどれほどの時間がかかるのかは不明。タウベは先のチンタオにあったため、日本軍のモーリス・ファルマンが送り込まれた。
自重370kgのモラーヌ・ソルニエG型はル・ローン70馬力で130km/hを出し、前方に向けて機銃を固定したことで活躍した。しかし、機銃のプロペラ同調装置はなかったため、3角形のデフレクターで弾丸をはじいた。アントニー・フォッカーはこのモラーヌ・ソルニエを真似てかつ、鋼管溶接の骨組み胴体にするなど改良を加えてフォッカーE1を作成する。エンジンもグノームのコピーだったが、馬力は20馬力アップの100馬力。さらにプロペラ同調装置も備えていた。でさらにこの同調装置を真似てイギリスが作ったのがソッピース・キャメルやフランスのニューポール。
 
【5章 飛び回った戦闘機の雄姿】
フォッカーE3の重量630kgに対し、ニューポール11の重量は480kgで、後の17は560kg。また単葉のフォッカーに対し、ニューポールは1葉半。これを、フランス語ではセキスプラーヌと呼んだらしい。半といっても翼幅が半分なのではなく、翼弦が半分になったもの。
日本の甲式1、2型はニューポールの11型。甲式3型は27型。ちなみに乙式はサルムソン、丙式がスパッド、丁式がファルマン、戊式はコードロンを表す。のちに「舵は甲三のごとく」と言われたのはこれだな。
フォッカーEシリーズは1915年から1916年にかけて出現したのに対し、ニューポールは5ヶ月遅れの16年4月頃から戦線に登場。さらにこれに対抗してアルバトロスが秋以降に出てくるようになる。アルバトロスの胴体は木製モノコック。モノコックにした理由として、佐貫先生のドイツはスプルースなどの丈夫で軽い材木が手に入らないから、という説を紹介しているが、筆者自身はドイツの家具好きからきているのではと推測。3型からそれまでの複葉から1葉半になったが、こちらは翼幅が半分のタイプ。単桁にしてしまったため、フラッターによる事故が多かったそうだ。
アーヘン工科大学のユンカース教授の専門は熱力学でディーゼルエンジンの他、ストーブとか作っていた。飛行機開発に手を出した最初の機体が襲撃機のJ4。ただし軍での呼び名はJ1で紛らわしい。エンジンの出力は230馬力あったらしいが、重量も2トンを超えていてたので上昇性能なんかは悪かった。ちなみにドイツ軍機は単葉がE(Eindecker)、複葉はD(Dopperdecker)、三葉はDr(Dreidecker)、複座機はCLと呼ぶらしいがこれはなぜかJになっている。
フォッカーDr1はソッピースのトライプレーンという機体を真似ているらしい。ただし構造は鋼管溶接で進化している。
イギリスの中戦はイスパノ・スイザのV8、180馬力を付けたSE5。最終的には300馬力まで出した。ただ、現代のV8のようにクランクピンの位相が90度ではなく180度になっていたので振動が多かった。
大戦後イスパノは自動車製造に手をつけ、ボンネットにはコウノトリのマスコットを付けた。このコウノトリはジョルジュ・ギヌメール大尉の所属していたコウノトリ中隊の部隊マークが由来。さらに自動車に関するエピソード。ランチアがF1から撤退するとき、メカニックをやっていたエンツォ・フェラーリが機材とチームを引き継いで会社を設立。そのトレードマークがバラッカ家の家紋である立ち上がる馬(リトランテ・カッバリーノ)。バラッカとはイタリア空軍でスパッドでエースになった人。どういう経緯でそれを使うことになったか説明はなし。
戦中あまりメジャーになれなかったローレン・ディートリックというメーカーも戦後自動車エンジンを開発している。それを担当したのが当時社員のエットーレで、後の「ブガッティ」に繋がる。ディートリックの航空用エンジン自体も優秀だったようで、中島が荻窪工場でライセンス?生産をおこなった。
 
【6章 第一次大戦後期の戦闘機】
大戦末期に登場したフォッカーD7はダイムラーの180馬力をつけていたが、速度性能は大したことがない。特徴はゲッチンゲン大学の空気力学科から提唱された揚抗比の優れた厚翼を採用したことで、ハング・オンができるらしい。D7は張線こそないが複葉、D8は単葉となった。エンジンも需要の高い列型エンジンが他に回されたのでまたロータリーに戻る。出力も110馬力と大幅に下がったが、最大速度はD7とかわらない190km/hだった。
メルセデス230馬力を4基または6基使ったツェッペリン・シュターケンは総重量13トン。問題だったのはこの重量を支えるタイヤの耐久性。また飛ばすだけでも大変で1機あたり300人ほどのメカニックが必要だったとある。
1918年になるとエンジンも高出力化が進み、RRはイーグルで350馬力、ローレン・ディートリックは400馬力、リバティーも400馬力に達する。いずれも水冷12気筒でディートリックのみW型。デ・ハビラントのDH10はリバティー装備で時速240kmを発揮。これを300機使った戦術爆撃を計画したところで終戦となった。
 
【第7章 大戦後の世界のプロペラ飛行機】
大戦後の1920年代は、その後の飛行機の性能を向上させる色々な新技術が登場する。
  • 発動機:過給気、潤滑油、高オクタン価燃料、固定空冷エンジン、可変ピッチプロペラ
  • 機体:引き込み脚、高揚力装置、気密室、低圧タイヤ、軽合金、モノコック構造
  • その他:無線電話、方向探知機、ジャイロ関係の計器や操縦装置
アメリカではカーチスJN4型、通称ジェニーが大量に払い下げられ、バーンストマーが活躍する。この機はカーチスOX5型90馬力エンジンを使っているらしいが、本田宗一郎が始めてレースに出たときのエンジンとある。レースってクルマの?
ニューポール・ドラージェ29型は日本陸軍でも甲式4型として制式採用になった機体。これの翼端を切ってエンジンをチューンアップした改造機が始めて300km/hを超える。スパッド13型の改造機がこれに対抗し、交互に記録を更新した。
スピードアップにはエンジン出力向上が有効だが、この時代効率的な方法はまだなく、プロペラのチューンが効いていたのではないかと推測。
速度記録のレギュレーションが明確になったのもこの頃。1924年に単葉のベルナール・フェルボアが413km/hをマークした。エンジンはイスパノV8のたぶん改造で、450馬力ほどだったよう。
1920年のゴードン・ベネット杯ではデイトン・ライト社のボウマンRB1は引き込み脚だったため、250馬力のホール・スコットエンジンでも230km/hを記録した。ちなみにこの機体がライト兄弟の会社の最後の製品となった。
シュナイダー杯の記録一覧が載っている。開催年、開催地、パイロット、国、機体、エンジン、馬力、総重量、平均時速の順で以下の通り。
  • 1913年:モナコ:プレスボスト:仏:Deperdussin:gnome14:160:1200:73.6
  • 1914年:ピクストン:英:S.Tabloid:Gnome19:100:650:139.6
  • 1920年:ヴェニス:ボロニア:伊:Savoia12:Ansaid12:500:2170:172.5
  • 1921年:ヴェニス:ブリガンチ:伊:MacciM7:Isotta12:250:1080:179.7
  • 1922年:ナポリ:ベアード:英:SSえLion:Nlion:450:1434:234.5
  • 1923年:コウス:リ・ハウス:米:CurtissR3:CD12:465:1246:285.5
  • 1925年:ボルチモア:ドウリトル:米:C R3C2:CV1400:619:1242:374.3(395.4)
  • 1926年:ハンプトン:ベルナルディ:伊:MacciM39:FiatAS2:800:1480:396.7(399.9)
  • 1927年:ヴェニス:ウェブスタ:英:S S5:NepierL:985:1450:453.2(514.2)
  • 1929年:ワグホーン:英:S S6:RR R:1920:2381:528.9
 1920年代、ターボも作られてはいた。日本陸軍もフランスのラトーのものを輸入して試製3型戦闘機を試作した。が、試験飛行までも行かなかったらしい。
耐ノッキング性を数値化したオクタン価についても数値化されたのはこの頃。ノッキング性を測るCFRエンジンを作ったのはイギリスのリカルドだが、数値化したのはGMのケタリングらしい。スーパーマリンS6Bの燃料はベンゾール30%、メタノール60%、アセトン10%という配合。
陸上機はフェルボアの記録の10年後にGBスーパー・スポーツスターが470km/hを記録。ハワード・ヒューズはH-1を作り、1935年には564km/h、L.A.-N.Y.間を平均532km/hで飛行する。零戦などと同じ、胴体後端をとがらせるスタイルにしたのはH-1が初らしい。
 
【8章 「大飛行時代」を迎えて】
1920年代から1930年代前半の大飛行時代で、遠距離飛行の障害となっていたのは機体そのものの性能以外にエンジンの信頼性があった。燃料系や潤滑系だけでなく、点火プラグや電装系が未成熟だったので、雨に弱かった。またラジエーターの電蝕による漏水も多かったが、冷却水がエチレングリコールになった頃から減ったらしい。
 
【9章 大西洋征服とリンドバーグ】
リンドバーグが達成したのは初の大西洋無着陸横断ではなく、N.Y.-パリ間の無着陸横断。大西洋無着陸の初横断は1921年のビッカース・ビミーをつかったブラウンとオウルコック。
ライアンNYPの原型はブルーアムという旅客機もしくは郵便機で、この機体の胴体を伸ばし翼幅を延長したもの。翼断面は下面が平らなクラークYで、これはフリーハンドで描かれたものを風洞試験して採用したらしい。エンジンはローレンスという人物が開発していたのをライト社が買い上げて製品化したホワールウィンド。
同時代のかのジュピターは最初は1922年頃にイギリスのコスモス社売り出したのをブリストルが買い取って改良、1923年にジュピターとして製品化した。ジュピターをライセンス生産した中島のエンジニアの話として、ジュピターは1931年に7型になった頃から信頼性が飛躍的に向上した、とのこと。
木製モノコックボディのロッキードのヴェガは当初ホワールウィンド装備だったが、P&Wのワスプが出てからはそちらが使われた。翼断面も高速機用として開発されたNACAの5番号シリーズが採用されている。性能的にはNYPの最高時速220km/hに対して285km/hとなった。
ヴェガを使った記録のひとつはワイリー・ポストとハロルド・ゲティの世界早周り飛行。1931年5月に8日と16時間で達成。このときの機体はワスプの1段過給機にもう1段追加し、高度1万mでも地上と同じ450馬力を発揮した。
また、この頃、1923年にレーヨンが開発され、大重量を支えるタイヤが製造可能になった。またその10年後にはさらにナイロンコードが開発され、総重量63トンのダグラスB19のタイヤにも採用された。このタイヤは2本しかなかったので1本当たり31トンを超えていた。
 
【10章 太平洋横断に挑んだ人たち】
太平洋の初の無着陸横断は1931年のミス・ヴィードルだと思っていたが、世界的には1928年のキングス・フォード・スミスの米豪間の飛行を指すことが多いらしい。使用機体「サザンクロス」はフォッカーF7a・3Mでエンジンはライト・ホワールウィンドの3発。
マック・ロバートソン杯競技は1935年の英豪間の連絡飛行。ロンドン-メルボルンの飛行で1位がデ・ハビラント・コメット、2位はオランダKLMのDC2、3位はボーイング247。ボーイングにはパングボーンも乗っていた。
ロッキード社はアラン・ロッキードの創設。ほんとの綴りはLougheadらしい。ロッキードの機体はシリウス、アルテア、オライオン、ロードスター、ハーキュリーズと天体シリーズが続く。
なお、パングボーンとミス・ヴィードルにで記録をつくったハーンドンはこの間の航空ファンでは「操縦覚えたて」とあったが、ここにはすでに1200時間の飛行経験があったとある。このベランカとライアンNYPのスペック比較あり。エンジンはP&W Wasp 450 HPに対してWright J3C 235 HP、離陸重量は4500kgに対して2400kg、翼面積は25.4㎡と29.6㎡、プロペラは金属製調節ピッチと木製固定ピッチ、記録は7874km(41h13m)と5800km(33h33m)。ベランカの翼断面は少し変わっていて前縁から30~40%の位置が最大圧になった後、70%のあたりでもう一度膨らんでいる。また記録時の燃料も工夫がされており、通常燃料のほかに離陸時専用にベンゾールが使われた。なお、機ヴィードルはスポンサーであるタイドウォーター石油のエンジンオイル製品である「ビードール」からとられた。
 
【11章 やってきた飛行艇の時代】
 SM55の初号機サンタ・マリア号がアルゼンチンまで飛行したのは1927年。12機編隊で渡ったのは1932年。1934年にはシカゴ万博に合わせて24機でエリー湖までたどり着く。SM55の製造にあたってはサボイア社近くのマジョレー湖周辺の船大工が動員された。
DoXは当初ブリストルからのライセンスでジーメンスが製造したジュピター500馬力を12基使用。ルフトハンザに納入されるときにはカーチス・コンカラー600馬力になっていた。せっかくの主翼上面にこれらを並べてしまったのは、始動をスムーズに行うためではと推測している。これだけの数を慣性始動機もなしで順次スタートさせるのは確かに大変かも。
チャイナ・クリッパーとなったマーチンM130を使ったパンナムのサンフランシスコからグアムまでの運賃は800ドル。日本円換算で2000円で、当時の日本陸海軍中将の月給くらい。
日本海軍は大正15年型の15式と(モデルはショートF5)を120機製作。次にスーパーマリン・サザンプトンがモデルの87式を15機、さらにショート・カルカッタがモデル90式を4機、91式は47機作った。97式は昭和12年の制式で、これを輸送機に改装した機体が昭和14年3月から南洋諸島への定期航空に使われた。料金は横浜サイパンが200円で、これは小学校の校長先生の月給くらい。
 
【12章 旅客機とエアラインビジネス】
 アントニー・フォッカーが最初に作った旅客機はフォッカーF1。その後いろいろ改良してF7から結構売れ始めた。アメリカにはめぼしい会社もいなかったこともあって、アメリカン・フォッカー社を設立し軍に売り込みをはかる。F7ベースにライト・ワールウィンドの3発を付けた新型機が開発され、これがフォッカー3Mとなる。
フォード3Mはフォッカー3Mを金属製にして大型化しただけ、とある。どれだけ参考にしたかは書いていないが、構造システムはほとんど同じで外板に波板のアルミ合金板を貼ってあるのが相違点。アメリカ中で使われたらしいが、製造数は300機程度とある。
波板はユンカースが有名だが、こちらで使われていた外板は0.4mm程度で、0.8mmほどの平板と同じくらいの剛性があった。
戦闘機メーカーだったボーイングがP&Wとハミルトン・スタンダードを手に入れW80という旅客機を開発したとある。傘下に入ったってことか?まぁ、それはともかく、次にエアラインに手を出すことになりユナイテッド航空を設立する。で1933年からノースロップ・デルタをまねたボーイング247の生産を始める。
これに対抗したダグラスはDC1を1機だけつくり、細部を改良してDC2を開発。これを拡大して寝台機として開発されたのがDC3で21人乗り。さらにエンジン出力や全備重量が2倍となるDC4を作ったがまったく売れず、3機の試作機のうち1機を大日本航空が購入。中島が手本にして深山を作った。
 
【13章 一般航空、スポーツ航空】
1924年にデ・ハビラントが作ったのがモスで、複葉二人乗り、エンジンは直列4気筒で60馬力のシーラス。価格は高級乗用車なみで、翼が折りたためたので一般人が自家用車でひっぱり自宅に保管できた。1930年にはこのモスでエミー・ジョンソンが英豪間の単独飛行に成功している。すげぇ。ちなみに彼女と結婚したジェイムズ・モリソンは次のD.H.プス・モスで大西洋逆横断に成功。このプス・モスは朝日新聞も購入しているが、満州からの連絡飛行の際に行方不明になったらしい。
この後、イギリスではパーシバル社が木製モノコックのミュー・ガルという低翼単葉機を、フランスでもコードロンが同じく木製モノコックのシムーンを発売する。このシムーンではすでに翼端のねじり下げが採用されていた。
アメリカではテイラーというメーカーが3000ドルをきるカブを発売し、広く普及する。テイラーは後にパイパーとなり、スーパーカブを大量生産することになる。
ドイツではベルサイユ条約の制限があったため、グライダーが発達する。ハンナ・ライチェもそのグライダーで操縦を身につけたとある。使われた機材はゲッチンゲン3、クラニッヒ、ライヤー、オリンピア、ダムルシュタート、ハビヒトの名前が挙げられている。この間の航空ファンにこのあたりの話が出ていたか。
 
【14章 第二次大戦初期の飛行機】
チャンスポート社のコルセアは本来着弾観測用だったが、車輪をつけて空母で運用すると偵察任務には具合がよかった、とあり。その後にアメリカの偵察・爆撃機はSBだからチャンス・ボートならSBU、と書いてあるんだが、コルセアならO2Uだから別の機体?
日本の90式艦上偵察機は「元来」コルセアのライセンス生産で、これで急降下爆撃をやってみて、94式艦上爆撃機、96式艦上爆撃機を作ったとある。
ドイツとフランスの戦闘が始まった頃、フランス側の主力はイスパノ水冷V12(900馬力)のモラン・ソルニエ406、ノーム・ローン(1000馬力)のブロッシュ152、ドイツ側はBf109E。Bf109Eにはかなわなかったが、MS406は太平洋戦争前のタイとの戦争でそれなりに活躍したらしい。対抗措置としてタイは日本から97式単発軽爆撃機と97式双発重爆撃機を輸入した。このときの代金は米だったとか。
 
【15章 戦闘の数々-航空撃滅戦】
フィンランドにソ連が侵入してきたのは1938年10月、このときフィンランド軍の装備はフォッカーD21が36機のみ。
トップエースになtったジューティライネン(70機撃墜)は列機を1度も失わなかった。
フィンランドがその後使用したのはアメリカからバッファロー、イタリアのマッキC200、ドイツが捕獲したカーチスP36、モラン・ソルニエMS406、撃墜したソ連のI153など。これ以外に同じく撃墜したI16のシュベツォフをバッファローに移植したり、MiG-3のクリモフをMS406に積んだりして使ったらしい。さらには機関銃もソ連機がつけていたシュカス銃なるものをつけたり、真空管もRCAシステムのものだからバッファローの無線機に使ったとある。
スウェーデンは双胴推進のS21と鋼管溶接の胴体に木製モノコックの翼を組み合わせたF22の開発をはじめる。F22のエンジンはダグラスDC3をライセンス生産を計画して作ったP&Wツイン・ワスプだが、ライセンスを購入していなかったため、戦後P&Wにロイヤリティを支払ったとのこと。
オーストラリアで作ったブーメランはテキサンベースだけど、胴体は新設計、翼も外翼は切り詰めて使っているが中央翼は新設計だとか。エンジンもスウェーデンと同じくDC3のライセンス生産を見込んでいたことから準備していたツイン・ワスプ。
三菱の金星もツイン・ワスプの発展型としている。そうだっけ?
ドイツのギガントはグノーム・ルローン800馬力を6基使って12トンのペイロード。離陸総重量44トンだから比率は28%。武装兵なら120人、丸腰なら200人乗れた。
フィゼラーのシュトルヒはアルグスV8の240馬力だが、離陸には50m、着陸なら30mでOK。
スツーカで戦車519両を破壊したハンス・ルーデルは、ソ連戦艦マラート号を撃沈した時には1トン爆弾で急降下爆撃をしたらしい。高射砲の弾を受けて膝から下を砕かれた時、後部座席に乗っていた軍医の応急処置で帰還できたとあるんだけど、どうやって治療したんだ?ルーデルは結局片足の膝下を切断することになったが、傷がふさがった1ヵ月後にはまたスツーカに乗ったらしい。
Bf109の優れた設計として、胴体と脚が一体になっていることが挙げられている。製造時に胴体が組みあがったら自立して移動できるからラインが簡単になるそうだ。
DB600系エンジンは各国でライセンス生産が試みられたが、イタリア、スウェーデンは成功、スペインは失敗とある。日本はどっちに入るんだろう。
 
【16章 日本の戦略偵察機の活躍】
朝日新聞社の神風号にもなったキ15は制式化され九七式司令部偵察機となる。この2型を海軍が採用して九八式陸上偵察機、通称神風偵察機。九七式の後継が100式司偵。偵察行為は各国で行われたが、連合軍は偵察後の分析が徹底していたそうだ。日本なら飛行機の数と種類を調べるくらいだろうな。
 
【17章 空母による機動部隊】
零戦の操縦系統で使われていた剛性をわざと低くして低速と高速での操縦性を同じにする方法は古くから知られていたとあるが、具体的な記述なし。
 
【18章 戦争末期の熾烈な戦略爆撃】
DB601系の双子エンジン、アリソンV1710の双子エンジンというのがあるが、RRバルチャーもV12のケストレルを2つ組み合わせたもの。同じくイギリスのネイピア・セイバーも水平対抗12気筒を2つ組み合わせたものだが、元のエンジンが何かというのはないなぁ。
エンジン出力向上のために排気量を上げる手段として、気筒径を拡大するというのがあるが、160mmを超えると異常爆発しやすくなる。ストロークを長くするとピストン速度が速くなってかじりや焼きつきが起こりやすくなる。小型シリンダーで回転数を上げるという方法をとったのが誉とある。ライト・サイクロンは気筒あたり3.3リットル、栄は1.99リットルだそうだ。回転数もサイクロンは最大2400rpmに対し、誉は3000rpm。もうひとつのアプローチとしてスリーブバルブを紹介。単列7気筒のアキーラから始まり、複列14気筒のハーキュリーズでは2800rpmまでまわして1400馬力らしい。
イギリスが夜間爆撃を行っていた際、ドイツ側は地上から夜間戦闘機に無線で指示を出す。これに対してイギリスはドイツ語を話せる人に誤った情報を流させて混乱させた。もし本物オペレータが女性ならやはり女性を用意するという徹底振り。
 
【19章 戦後の世界とプロペラ飛行機】
戦後の大型レシプロ機はB29のエンジンをP&Wワスプ・メージャーに変えたB50。同じくメージャーを6発(に加えてJ47も追加)使ったB36がある。イギリスでは試作だけだがブリストル・ブラバゾンが8発、サンダース・ロー・プリンセスというのがあるらしい。P&Wに対抗したライトはサイクロンR3350のターボコンパウンドエンジンを開発、ロッキード・スターライナー、ダグラスDC7Cが作られた。

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