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炎の翼「二式大艇」に生きる [書籍]

体験記。戦闘の記述は緊迫感があるが、機体の印象、性能に関することはほぼないのが残念。
 
【炎の翼「二式大艇」に生きる】(木下悦郎)
「K3」と称される機体は離水後に翼端のフロートが跳ね上がる機構があり、速力も5ノット速いとあり。
電探の形式などの記載はないが、索敵時にも大きなトラブルがあったようなことは書かれていない。
敵の夜戦に遭遇したときは、「反射散布紙」を撒いて敵の電探を欺いた。
 
【大いなる愛機「二式大艇」奇蹟の飛行日誌】(日辻常雄)
B-17との空戦の様子あり。被弾93発。二番エンジンは火災を起こしたが自然消化。電信員が右腕切断、搭乗整備員も貫通銃創の重症だったが、無事帰還した。この教訓から武装を強化、燃料タンクは防弾ゴムでまかれ、パイロット席と各銃座に防弾鋼板が装備され重量が1.5t増えた。
 
日本でのレーダーでの着想は大正13年、米国留学から帰国した浜野技術大尉が上申したのが最初とある。もっとも、その意見は無視され、実際に開発が始まったのは昭和13年。
 
特型潜水艦と晴嵐によるパナマ攻撃以外に、有馬正文少将という人物が潜水艦で途中給油しながら大艇3機でパナマ運河爆撃を企図したとあり。しかし結局具体的な作戦にはいたらず。
 
昭和20年3月、鹿児島からウルシーへの銀河24機の特攻作戦のため大艇3機が誘導する。3機のうち1機は3200海里の飛行をして鹿児島に帰ることができたが、1機は撃墜され、もう1機はメレヨン島に不時着、乗員は3ヵ月後に潜水艦で帰国した。
 
 【わが潜偵 米機動部隊の頂上にあり】(山下幸晴)
この章だけは零式小型水上偵察機の話。著者は伊36潜の機に搭乗。金魚と呼ばれたこの機体は巡航速度が90ノットくらいで、呉竹の海軍病院の病棟と病棟の間をぬっての低空飛行もおこなったとあり。
 
作戦時には潜水艦の格納庫から引き出して、両翼、浮舟、脚、プロペラの組み立てを行うが、最初の頃は20分くらいを要したものが、訓練により6、7分で行えるようになった。
 
昭和19年4月15日、大型空母と接敵、いったん見失うものの16日に魚雷攻撃を行い命中させた。実際の戦果がどのような結果だったかは記載なし。
 
 その直後の4月22日、マーシャル諸島メジュロ島の偵察を水偵で実施。このときの組み立て時間はわずか4分だった。夕暮れ時に偵察を行うため、午後2時55分にミレ島付近から発進。無事にメジュロに到着した後、5分ほどの偵察で空母が11隻いるのを確認。その後何とか伊36潜と合流し、収容された。機体はその場で処分。追ってきた敵機、敵艦からは激しい爆雷攻撃を受けるも逃げ切った。
もっとも、大本営では空母11隻の報告を信用せず、もう一度偵察をやり直せと指示してきたらしい。
 
【翔べ!空中巡洋艦】(佐々木孝輔)
 零式三座水偵に乗っていたときの事、エンジンの馬力が落ちていると整備員に指摘したところ新品との返事。確認したところ、いつもの三菱ではなく日立のマークがついていたらしいが、具体的な形式等は不明。
 
九七式大艇では水上滑走しながらの魚雷発射を行ったが、「照準装置もなくまるでダメ」だった。
 
昭和18年7月二式大艇で実用航続力試験が行われた。横須賀を出発し、20時間半をかけてスラバヤへ到着。燃料は後1時間分残っていた。また1700海里を過ぎたセブ島で位置を確認すると、航法誤差は右に1海里、前後に3分という精度だった。
 
二式大艇での搭乗時の様子の記述あり。弁当は一人当たり4食分、搭乗員は12名だから48食が持ち込まれる(一人がまとめて運ぶ)。小型エンジンのついたゴム浮船で艇に近づき、左舷後方の入り口からひとりずつ乗る(機種右側にもブイ取り用の小さな出口がある)。点検後エンジン始動するが、暖機に20分ほどかかり、指揮所で整列出発してから離水するまで1時間もかかった。
 
レーダー妨害用のチャフの話が書いてあるが、ここでは3cm幅で長さ1mの厚紙に錫箔がぬってあるもの、としている。これを撒くのは尾部銃座の射手の役目。偵察終えて帰投するときには敵機が確認できなくてもばら撒いた。
 
【南海の空に燃えつきるとも】(佐々木孝輔)
トラックへからの帰途、ダバオで1番エンジンである右側外発の油漏れがひどくなり、3発で離水を行う。方向舵とエンジン出力の調整で直進させようとするがどうしても右側にふられる。3回やり直してようやく離水できた。故障したエンジンのプロペラはロープで固定したそうだが、通常150ノットの速度が出るところ、115ノットしか出なかった。
この前に「停止空転(フェザー)状態にして飛行したことがあり」とあるが、 今回はなぜできなかった?また、フェザーリングって本来ならプロペラピッチが90度になって空転しない状態じゃないのか?
日本海軍ではゼロピッチという発想がなく、暖気の時には水面を滑走し続ける必要があったとあるから、完全な90度のフェザーリングもできなかったのかも。
 
あ号作戦の後、19年7月に補八五一空飛行隊長の辞令後、すぐに横須賀航空隊教官兼分隊長となり、横空に戻る。同時に審査部も兼任し、蒼空の木型審査にあたる。蒼空は3階建てで2階が人員90名の客室となっており、畳が敷いてあったそうだ。 3階の前方が乗務員室、後方が旅客用士官室12名分。
ちなみに二式大艇の輸送機版晴空の座席は62名で、椅子は重量を配慮して籐製だとか。
 終戦直後は二式大艇の空輸を指示されたそうだが、途中でキャンセル。その後日辻少佐が空輸することになった。
 
 
こっちはちがうもの?
炎の翼「二式大艇」に生きる

炎の翼「二式大艇」に生きる

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 2010/07
  • メディア: 単行本

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