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陸軍 実験戦闘機隊 渡辺洋二 [書籍]

巻頭の写真は飛行中のキ51、駐機状態のキ45改、Bf109E-7を追随するキ60、一列に並べられたキ60とキ44、修理中のキ44増加試作機、捕獲されたDC-5、P-40E、バッファロー、JRF-5グースと並んだA-20ハボック、日の丸のついたFw190A-5、ロ3弾を下げた一式戦、テスト中に接触事故をおこしたB-17D、キ102甲、橇をつけた99軍偵、100式司偵4型等。
 
第一部 審査に邁進(昭和14年12月から19年10月)
【第一章 テスト機材:キ43-I、キ44、キ45改、キ60、交戦:キ61(対B-25B)】
部隊のルーツは大正13年(1924年)に設立された所沢陸軍飛行学校の研究部。航空が兵科として独立した大正14年5月に航空本部技術部として昇格。昭和10年に航空本部が改編されたとき、陸軍航空技術研究所、通称技研となる。さらにこの技研から実用テストと審査を行う組織として陸軍飛行実験部が独立する。これが昭和14年7月3日の制定、12月1日の施行。
ちょうどそのころ遠距離戦闘機が必要になったことから、隊でキ43を一式戦に仕立てるためのテストが始まることになる。このテストを担当したのが荒蒔義次大尉で、転属してきたのは昭和15年の暮れとある。大尉は第42期士官候補生出身で第37期操縦学生を昭和6年に終えている。操縦経験は甲式四型以降の大抵の陸軍機に加えて海軍の零戦、九九艦爆、強風、九七式大艇もあり。
荒蒔大尉の燃料消費テストでは1時間あたり63リットルの結果が出ている。
空戦性能のテストでは初日は明野の九七戦に太刀打ちできなかったが、2日目に沢田貢大尉が乗った九七戦に飛行実験部の岩橋大尉のキ43が縦の格闘戦に持ち込み勝利する。64戦隊の加藤建夫少佐は当初キ43に反対していたらしいが、理由は不明。
Bf109E-7と国産機の性能比較は昭和16年7月に行われた。ロージヒカイト大尉が乗った際には模擬戦にならなかったが、岩橋大尉がBf109に、荒蒔大尉がキ44が乗った場合では低位戦、高位戦でもキ44が優勢となった。ちなみにロージヒカイト大尉と一緒に来日していたヴィリー・シュテーア氏はロッテ・シュバルム編隊空戦方法を陸軍に紹介した人。
キ60とBf109の比較テストは9月から10月にかけて行われ、速度と上昇力はほぼ互角、空戦性能もほぼ互角と判断された。キ44との比較では速度がやや劣り、格闘戦能力も空戦フラップを使った場合は適わなかったが、横転を除く機動性は優れ、着陸特性も上だった、らしい。ただし総合的にはキ44が上。
 
B-25が来襲したとき、キ61で出撃したのは梅川准尉と荒蒔少佐。すぐに用意できた演習用撤甲騨を装備して先に出たのが梅川准尉で、霞ヶ浦上空でホームストロム少尉操縦の40-2282に一撃を加えることができた。
 
【第二章 テスト機材:キ84、キ96、Bf109E、Fw190A、P-40E、バッファロー、ハリケーン、、ホ103上向き砲、防弾タンク
Bf109Eは明野飛行学校でテストしたときのエピソードとして、着陸時に低速なったとき尾部が下がりにくく、水平姿勢で接地するとバウンドが激しくなって機体が傾き、翼端を地面にこすることが多かったとある。このBf109について、荒蒔少佐が急降下試験を行った。4000mから降下を行い、2000mをきったところで750km/hを記録。少佐の判断はキ44と比べて水平速度は互角、上昇力と旋回性、離着陸特性はキ44、急降下時の加速性と量産しやすさはBf109とのこと。量産のしやすさまで評価できたのか?
 
米英からの正式輸入機は昭和14年の10月に到着したDC-4Eが最後。戦闘機に限れば昭和13年のセバスキーPA-L。 これ以後は各地で鹵獲された機材が持ち込まれる。フィリピンでBとE型、ジャワ島、バリ島でE型が入手されたP-40に対する荒蒔少佐の評価。操縦席は広すぎるほどで「作りも性能も大まか。長所は下手なパイロットでも気軽に乗れるところ」。最大の欠点は降下時には左へ、上昇時には右へすべるためそのつどタブを調整しなければならないこと。荒蒔少佐の後任である坂井菴少佐は「P-40は癖が強い。Bf109と同じで、特に離着陸時に顕著だ。ただし、野外に放置しておいてもセルモーターですぐ発進できる」とコメント。
バッファローはF2Aではなく、オーストラリア空軍仕様のバッファローIとオランダ空軍のB339Dがシンガポール、マレー半島で入手された。荒蒔少佐は「低速時の舵がよく効き、沈みが適当にあって思い通りに素直に接地する」反面、「 操縦はやや鈍重で水平飛行時もかなり加速しないと沈み気味になってしまう」との感想。
同じくアレー半島とスマトラ島パレンバンで捕獲されたのはハリケーンIIB。飛ばしてみると急旋回時に失速に陥りやすく、格闘戦能力は高くない、上昇力もパッとしないが降下時の加速性は上々だそう。一式戦との比較では上昇力と旋回性能は間違いなく一式戦がうえだが、上空から斉射をかけて降下で離脱するならハリケーンに分があるとの印象。
 
キ84のテストにおいてはハ45とともにラチエの定速4翅プロペラの問題が多かった。調速器のスイッチ断・続の機構が不安定で、急機動や急加速時にプロペラピッチとエンジン回転数がかみ合わず過回転と過小回転を繰り返すハンチングが多発した。 ガバナーを製造する富士電機で回転軸に重錘振り子を付加して解決を見たのは19年になってから。
 
Fw190A-5の審査を神保少佐が始めたのは昭和19年。10月から副担任として搭乗した荒蒔少佐の感想は、離陸時の滑走は偏向癖がなく、上昇力も充分で、水平飛行時の加速も優秀、急旋回でも悪い癖は見られない。降下時の加速性はBf109には及ばないが良好、総合的な飛行性能は四式戦にも五式戦にも似ていてその中間あたり、というもの。
 
キ96を審査した林准尉は速度を殺し、旋回方向のエンジンを絞れば小回りが効き、キ84と互角の空戦も不可能ではないとの考え。ただし、このときは武装は装備されていないので、実際にはもう少し割り引く必要があるが、岩倉少佐も「単発機と変わらないほどの、素晴らしい飛行機」と評している。
 
熊谷航技中尉がキ84のテストを行った際、神保少佐から急降下は計器速度で750km/hまで絶対大丈夫とのアドバイスを受け、実際にその速度(真速度で800km/h)まで確認したとのこと。
 
技研で防弾タンク、防弾鋼板の参考になったのは米軍の捕獲機。ただB-17Dが使っていた耐ガソリン性のネオプレンが製造できず、タンクの外側に天然ゴムを張る外張り式を採用。この場合12.7mm弾に一応耐えられた。
 
【第三章 テスト機材:キ61-II、キ-61II改、キ94-I、キ102乙、メ101、タ弾、ロ三弾】
キ84のぺ32はラチエの電気式は宮川利雄少尉、勝又智博少尉によると、覚えてしまえばハミルトンの油圧式より整備も楽らしい。ただし、初期にはピッチ変更を伝える電気接点の接触圧力不足、電気接点への潤滑油の付着などのトラブルが多かった。
 
キ102乙を審査した島村三芳少尉によると、「上昇力に乏しく、速度も飛行特性も芳しくない」との判定。ホ401の射撃テストでは初速が遅いため弾体が見えるほどだった。カタログでも毎分80発なので、一回の地上攻撃で2発しか打てないがあたれば57mmの威力はすごかった。
 
59期操縦学生出身の鈴木金三郎准尉は昭和20年2月27日に北京から福生までの3200kmを百式司偵4型で飛び、平均700km/hの速度記録を達成したとある。ホントか?
 
荒蒔少佐はキ94-Iのモックアップ審査の頃に研三にも乗っている。陸軍ではただ一人。キ94-Iの審査時、エンジンや過給機の位置に無理があったことも挙げられたが、何より機外脱出が困難というのが中止になった第一要因としている。危険性の高い研三には乗っても、キ94-Iの搭乗はきっぱり断ったそうだ。
 
帯広で行われた17年から18年の雪橇試験は、一式戦、二式戦、九七重爆、九九双軽、百式司偵などが行われた。百式司偵は性能低下がひどかったために一度で中止された。次の18年12月から始まった試験では一式戦、二式戦、三式戦、キ84が対象となった。雪橇はジュラルミン製のモノコック構造で、設計は第一航空技術研究所と審査部飛行機部、製造はオレオは岡本工業、橇本体は宮田製作所だった。橇をつけると単発機で最大速度が8~10%低下する。
 
昭和19年2月に着任した疋田嘉雄少尉によると、ハ40はいくらか粗製化の傾向はあるものの、ちゃんと整備すればよく動いたらしい。実戦部隊での不評は整備力の不足が原因と推測され、川崎の岐阜工場で完成機を抜き打ちで選んでテストしてもとりたてて不具合は見られなかった。エンジン整備のスペシャリストでもある小島修一軍曹も「ハ40そのものは悪くなかった」との意見。また、ハ140についても疋田氏は「特にひどくはない。アブラ漏れなど熟練工不足の弊害は出たが、ちゃんと動きました。」 、小島氏は「とりたてて整備しにくいことはありません。大体は動かしていた」との回想。
 
タ弾は0.7kgの小型弾を30発つめたものと60発つめたものの2種類があった。陸海共通兵器らしいが、海軍の2式6番21号爆弾とは小爆弾の大きさや弾体の形状が異なる。効果的な投下条件を調べるためのデータ収集は満州で行われ、九九双軽を飛ばせてそれが地面に落とす影を目標に投下した。またこの白城子では他に普通の爆弾を空対空用にした曳火爆弾、小型爆弾を長いピアノ戦で曳航し敵機に引っ掛けるト三弾、小型爆弾に落下傘をつけ敵機に当てるト二弾、小型噴進式のロ三弾もテストされた。ロ三弾は8kgで破壊力は九九式8センチ高射砲弾と同じらしい。初速は200m/sで速くはないが、テストはうまくいった模様。しかし生産はされなかったらしい。ちなみに海軍は3式1番28号爆弾と18試6番27号爆弾というロケット弾を実戦で試用、前者の対水上目標タイプは相当作って配備されたとのこと。
 
見越し偏向射撃を自動で行う照準器も昭和19年秋頃にテストされたらしい。原理構造についての記載はないが、射撃が得意でない畑俊八航技中尉のテストで命中率60%、得意の来栖良航技中尉は80~90%だった。また島村三芳少尉もこの審査にあたっており、「自動照準眼鏡メ101」の名前があったと記憶している。
 
【第四章 テスト機材:キ四三-III、キ一〇二甲、ハ一一五、アルコール燃料、ホ二〇四上向き砲、タキ二号】
黒江少佐はキ102甲の審査を担当。甲は乙に比べてエンジンがハ112ルになったこともあり、高度10,000mでも一通りの機動ができる。装備は胴体下部のホ5 20mm×2、後席のホ103 12.7mmは同じだが、機首の武装が乙のホ401 57mmの発射速度が毎分60発で携行弾数も16発しかないのに対し、甲のホ204 37mmは発射速度は6~7倍で携行数も35発だった。一発あたりの威力も口径は小さいものの、初速は500m/sから710m/sに向上しているため遜色ない。
 
整備隊の四五班ではレーダー装備機の評価を始める。陸軍が最初に試作したタキ二号電波票定機は18年10月、二式複戦甲型に取り付けてテストしたが実用不能の判定となる。そこですぐに改良型タキ二号が開発され、二式複戦の機首にとりつけられたものが昭和19年8月ころに福生に持ち込まれる。この改良型タキ二号の有効距離は対双発機の場合で200m~3.2km、重量130kgだった。テストの結果は散々で、 使い物にならなかったようだ。
 
一式戦III型が福生に来たのは19年半ば過ぎ。速度は文句なしに向上したとの事だが、佐々木勇軍曹によるとそれ以上に「飛行機自体が軽く感じられた」、「上昇性能のほか、機動特性として、旋回の持続性に強い粘りをともなったように思う」との印象。 パワーがあがると操縦特性までもかわるものか。
また二型のハ115に対して最大回転数を100rpm増にする通達が出たが故障が続出。審査部でテストしなおしてやはり無理との結論になった。
 
昭和19年の暮れ、仙波少尉と市原少尉が複座の四式戦で訓練をしたとある。応急の改造機らしいが詳細はない。
 
アルコール代用燃料のテストも行った。ガソリンと混合して使える一号(無水)アルコールと低純度で混合できない二号アルコールの二種があった。アルコールを使用すると、気化性が悪くて始動が困難、アンチノック性が低い、混合気の調整がシビア、金属材料に対する腐食性が大きい、気化器のノズル径の拡大が必要などの欠点が多々ある。審査部で一式戦でテストした際のエピソードとして、燃費の悪さに驚いたとある。二式複戦はアルコール燃料で高度10,000mまで到達できた。またエンジンの全開高度が300mほど高まり、最大速度も15km/hほど増大したそうな。キ102ではアルコールを混ぜると、ガソリン分だけの飛行時間しか確保できず入れるだけ損とのデータがでた。また混合比の幅が少ないため、気筒の上下位置で燃料濃度に差が出る星型エンジンは不向きで、倒立Vのキ61向きとの意見も。
 
航空工廠で37mm ホ204を追加改造された百式司偵が福生に来たのは19年9月。ホ204はホ203に対して全長は1mも長い2.5m、初速も25%増しで弾丸重量も20%増えていた。発射速度も3倍。全席と後席の間に70度の仰角で取り付けられた。テストではそれなりに目標の吹流しにあたったらしいが、照準器がなかったためキチンとした評価はされていなかった模様。
 
《第二部》 
【第五章】 テスト機材:キ一〇〇、キ一〇八、四式重爆、キ一〇九、ハ一四〇、マルサ装置、アルコール燃料、雪橇
             交戦:三式戦二型、四式戦(対B-29)
昭和19年11月、林武臣准尉が酸素過給システムを装備した一式戦闘機を審査中、第20航空軍の第3写真偵察飛行隊のF-13Aと遭遇する。酸素過給を行うレバーは座席右下にあった。
11月24日から本格空襲が始まり、審査部も邀撃にあたる。組織立った対応はなく、各審査担当の機材に乗って「てんでに発進」といった感じらしい。
熊谷技術大尉は三式戦二型でB-29と速度競争をする。高度9000m爆弾投下後の機体相手に目測で10km/hほど優速だった。この後攻撃を仕掛けたが、主翼に当たった敵弾が跳弾となってラジエーターを破損、プロペラが止まったような記述があるが、海軍の香取基地へとたどり着く。香取基地では田宮勝海准尉と遭遇。准尉は四式戦で2機撃墜後、同じく被弾して同基地に下りた。
三式戦二型は高度7000mまでなら10分以内で到達できるが、10,000mとなると30分かかる。上昇力を稼ぐため落下タンクはつけないが、戦闘を含めて40~50分の存空が出来る。
B-29への攻撃ポイントとして機内与圧用のエンジンを狙ったとある。どう絞り込んだのか与圧用は右側内側エンジンと推測したらしい。実際には両側の内側エンジンだから半分正解。しかし、実際にはピンポイントで狙えるほど余裕はなかったので実行されなかった。
 
キ67の話も少し。アルコール燃料試験では50%混入なら実用に耐えるとの結果。雷装のテストは海軍の追浜基地、横須賀航空隊で行われた。500km/hを超えると九一式航空魚雷が海面で跳ねたり、逆に深く潜りすぎたりしたが、1度50分下向きに装着したところよい結果が得られた。結構微妙な角度。
キ67ベースでは、酒本少佐が昭和18年11月に発案したキ109がある。初飛行は翌年の8月30日。地上目標に対しては照準器で狙ったとおりに命中 したが、3回の実戦では戦果を上げられなかった。昭和20年2月には試作2号機にル三排気タービンを装着して高度10300mまで上昇できたらしい。
 
キ108の機密室は長さ1.725m、直径0.9mの繭型のジュラルミン製。「空気を送り込むポンプがなく、二枚羽のルーツ・ブロアーで与圧を行う仕組み。ブロアーの摺動面積が大きいので、ある程度の時間飛んでいると、潤滑油の濾過が不充分なため温度上昇につれて煙が発生し、フィルターを超えてキャビン内に入ってきてしまう」とのこと。これに乗ったのは少なくとも岩倉少佐、黒江少佐、島村三芳少尉の3人。
 
昭和20年1月に審査部に戻ってきた荒蒔少佐は秋水班のトップとなる。秋水班は審査部の特兵部特兵隊の1グループらしい。使用機材はたか七型(?)、ク1-II、ク8-IIなど。当初、陸軍なのでパイロットはキ200と呼んでいたらしいが、それもそのうち秋水と呼ばれるようになったとある。この班も対B-29の迎撃に上がるときは三式戦II型を使用し、効果を上げた。
 
三式戦の空冷エンジン化は昭和18年の8月飛行実験部長の今川一策大佐が航空本部などとの合同会議で主張したのが始まりとある。それより後の昭和19年の初めから川崎の明石・岐阜両工場へ出向いた名取智男隊は「ハ140の出力向上には無理がある。性能を維持できない」と判断した。今川実験部長は19年4月には川崎に空冷化の検討を依頼。昭和19年9月、荒蒔少佐のあとキ61の審査を継いだ坂井少佐、名取大尉、総務部長の於田秋光大佐が川崎側および航空本部とキ61-II改の採用、生産について会議を行い、キ61II型改の生産は100機程度にとどめて内地の部隊にだけに使わせることになり、10月にハ112-IIへの換装試作を指示する。試作1号機は20年1月下旬に水滴型風防の三式戦II型を改造して完成。初飛行は土井氏の言う2月1日と坂井氏の言う2月11日の2つの説がある。
 
 昭和17~18年、18年~19年の冬季テストで一式戦、二式戦(単?)、三式戦の橇の審査が行われた。ジュラルミン製は丈夫で作りやすいが、雪が付きやすいので木製へ転換することに。製造はプロペラも作っていた日本楽器とスキー板の製造経験のある美津濃。四式戦用は美津濃が製造し、合板の上に綿布を張り、セルロイドのコーティングがされたらしい。出来は良かったとのことだが、実際に四式戦に装着してのテストは行われなかった。
テストの総合的な結果、木製はジュラルミン製に対して重量が20%と増しとなる。好ましい縦横比は4.5~5.5、主脚の取り付け位置は全長の55%が好適。合板の厚さは上面4mm、底面6mm、底面にセルロイドを貼ると着雪がほとんどなくなる。離着陸時の風は5m/sくらいまでなら問題なし。飛行速度は40~60km/hも悪化し、安定性もやや損なわれる。
 
【第六章  交戦:一式戦III型、四式戦(対F4U)、三式戦II型(対F6F)、三式戦II型、四式戦(対B-29)
交戦記録が主。その中の一つ、黒江少佐はF4U12機対して1機で攻撃を仕掛けるが反撃を受け、全体で40発以上、胴体にも十数発を被弾。しかし、本人にはかすり傷もなく福生に無事帰還している。
黒江少佐はキ102甲でB-29の迎撃にも参加、高度10400mで37mmと20mmの斉射をかけたがエンジンンに被弾する。この日はそれまでだったが、別の日にもB-29を攻撃、被弾させて高度100mまで下がったのを確認。しかし太平洋上まで追跡したものの撃墜は未確認。 キ102は高度12000mまで上昇可能で、9000mでも機動が可能だった。
また同じキ102でも島村少尉は乙型の57mmをB-29に命中させている。その後三式戦が体当たりして墜落した。
 
佐々木曹長、黒江少佐は20年4月に四式戦で迎撃に上がり、黒江少佐は撃墜2機と不確実撃墜1機、佐々木曹長はそれぞれ1機と2機という戦果を上げている。
 
【第七章 テスト機材:キ九四-II、キ一〇六、キ一一五、秋水軽滑空機、特呂二号、タキ二号
                   交戦:一式双発高練(対P-51D)】
昭和20年2月、中国でP-51Cが捕獲される。内地への運搬は船を使うことが検討されて一部分解されたが、空輸に変更される。審査部から坂井雅夫少尉が出向いてこれらを組みなおし、同じく審査部の光本准尉が内地へ運んだ。途中の漢口で破壊目的に十数機のP-51が来襲したが捕獲機は無事だった。
 審査部に運ばれてからの審査主任は坂井菴少佐だったが、乗っている時間は黒江少佐のほうが長かったらしい。 写真も載っているがシャークマウスなど国籍マーク以外はそのままで、元のストロウブリッジ大尉の撃墜マークも残したまま使っていたようだ。四式戦との比較で、水平面の旋回性能はブースト圧プラス200ミリの巡航出力状態では五分五分。100オクタン燃料を入れブーストを400に上げればP-51Cが勝る。黒江少佐のコメントは「一口に言えば、調和のとれた素晴らしい戦闘機」「じつに恐るべきはこのムスタング」で、荒蒔少佐も「乗りやすく、速度、上昇力、格闘性のいずれもが優秀で、欠点を見出しにくい。機関銃や無線機を積まないテスト時のキ61試作機に似た感じ」との評価。キ61の試作機ってそんなにいいのか。燃料消費試験は100オクタンガソリンを使って行われ、硫黄島から本州までの1100kmを超えることを確認している。
P-51は黒江少佐が担当となって、各戦闘隊との模擬戦用に使われた。相手になったのは調布の244戦隊、柏の18戦隊及び70戦隊、下館の51、52戦隊、明野の教導飛行師団、伊丹の56戦隊、対象の246戦隊で、移動のたびに100オクタン燃料を列車で運んだそうな。その後明野に引き渡すことになったが、テスト中に発電機が燃えてそれ以後は飛
べなくなった。

 

 五式戦II型の審査はキ61と同じ坂井少佐、名取少佐の班が担当。エンジントラブルもなく、景気高度で12000mの飛行もできたようだ。

 
秋水の審査では機体もさることながら、運用方法も課題で、飛行服や食料、燃料車、航空医学、薬液貯蔵の土木工事なども検討対象だったようだ。無線誘導の可能性を検討するために荒蒔少佐は東北大の八木秀次博士まで尋ねている。ロケット・エンジンのテストを行っていた際のエピソードとして、燃焼が強すぎて陸軍の技術陣が苦労していたところ、研理化学研究所の加藤千世博士が乙液の水の添加量が少ないことをすぐに指摘し、安定した燃焼が実現できたとある。

 秋水試作二号機は陸軍用で、これはキ200の1号機としている。重滑空機を三菱から運んだのは荒蒔少佐。少佐の言葉として「秋水だけは怖かった」というのが紹介されている。ちなみに曳航用の適当な飛行機がなかったので、海軍から天山と操縦、偵察、整備の士官を借り、その後の訓練も担当したそうだ。

四式重爆を改造して75mm88式高射砲を搭載したキ109の操縦桿を握ったのは黒江少佐。実射テストの結果、姿勢が安定していれば命中精度は十分との判断。

キ94-IIは立川の疎開工場になっていた葛飾区金町の帝国製麻というところで試作が進められていた。8月10日に工場の庭で試運転が行われ、初飛行予定は18日に予定されていた。工場の外に出すために工場の門を壊す相談をしていたという話が面白い。

木製化された四式戦であるキ106は立川で作られたが、生産は王子製紙の札幌の工場でも行われた。8月初めまでにすくとも3機が完成、黒江少佐が完成式に出席し、アクロバット飛行を披露した。重量が400kg増えたことによる上昇力の低下が目立つ以外はこの時点では大きな問題はなかった。しかし、審査での強度試験で620km/hで降下し引き起こしを始めた時点で右翼下面の外板が吹き飛んでしまった。

キ115は「飛べるには飛べた」というくらい。松根油は五式戦で試したところ、離陸はできたものの上昇性能が悪くなり実用は無理とわかった。


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