So-net無料ブログ作成

炎の翼「二式大艇」に生きる [書籍]

炎の翼「二式大艇」に生きる (証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション)

炎の翼「二式大艇」に生きる (証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション)

  • 作者: 木下 悦朗
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 1990/10
  • メディア: 単行本
体験記。戦闘の記述は緊迫感があるが、機体の印象、性能に関することはほぼないのが残念。
 
【炎の翼「二式大艇」に生きる】(木下悦郎)
「K3」と称される機体は離水後に翼端のフロートが跳ね上がる機構があり、速力も5ノット速いとあり。
電探の形式などの記載はないが、索敵時にも大きなトラブルがあったようなことは書かれていない。
敵の夜戦に遭遇したときは、「反射散布紙」を撒いて敵の電探を欺いた。
 
【大いなる愛機「二式大艇」奇蹟の飛行日誌】(日辻常雄)
B-17との空戦の様子あり。被弾93発。二番エンジンは火災を起こしたが自然消化。電信員が右腕切断、搭乗整備員も貫通銃創の重症だったが、無事帰還した。この教訓から武装を強化、燃料タンクは防弾ゴムでまかれ、パイロット席と各銃座に防弾鋼板が装備され重量が1.5t増えた。
 
日本でのレーダーでの着想は大正13年、米国留学から帰国した浜野技術大尉が上申したのが最初とある。もっとも、その意見は無視され、実際に開発が始まったのは昭和13年。
 
特型潜水艦と晴嵐によるパナマ攻撃以外に、有馬正文少将という人物が潜水艦で途中給油しながら大艇3機でパナマ運河爆撃を企図したとあり。しかし結局具体的な作戦にはいたらず。
 
昭和20年3月、鹿児島からウルシーへの銀河24機の特攻作戦のため大艇3機が誘導する。3機のうち1機は3200海里の飛行をして鹿児島に帰ることができたが、1機は撃墜され、もう1機はメレヨン島に不時着、乗員は3ヵ月後に潜水艦で帰国した。
 
 【わが潜偵 米機動部隊の頂上にあり】(山下幸晴)
この章だけは零式小型水上偵察機の話。著者は伊36潜の機に搭乗。金魚と呼ばれたこの機体は巡航速度が90ノットくらいで、呉竹の海軍病院の病棟と病棟の間をぬっての低空飛行もおこなったとあり。
 
作戦時には潜水艦の格納庫から引き出して、両翼、浮舟、脚、プロペラの組み立てを行うが、最初の頃は20分くらいを要したものが、訓練により6、7分で行えるようになった。
 
昭和19年4月15日、大型空母と接敵、いったん見失うものの16日に魚雷攻撃を行い命中させた。実際の戦果がどのような結果だったかは記載なし。
 
 その直後の4月22日、マーシャル諸島メジュロ島の偵察を水偵で実施。このときの組み立て時間はわずか4分だった。夕暮れ時に偵察を行うため、午後2時55分にミレ島付近から発進。無事にメジュロに到着した後、5分ほどの偵察で空母が11隻いるのを確認。その後何とか伊36潜と合流し、収容された。機体はその場で処分。追ってきた敵機、敵艦からは激しい爆雷攻撃を受けるも逃げ切った。
もっとも、大本営では空母11隻の報告を信用せず、もう一度偵察をやり直せと指示してきたらしい。
 
【翔べ!空中巡洋艦】(佐々木孝輔)
 零式三座水偵に乗っていたときの事、エンジンの馬力が落ちていると整備員に指摘したところ新品との返事。確認したところ、いつもの三菱ではなく日立のマークがついていたらしいが、具体的な形式等は不明。
 
九七式大艇では水上滑走しながらの魚雷発射を行ったが、「照準装置もなくまるでダメ」だった。
 
昭和18年7月二式大艇で実用航続力試験が行われた。横須賀を出発し、20時間半をかけてスラバヤへ到着。燃料は後1時間分残っていた。また1700海里を過ぎたセブ島で位置を確認すると、航法誤差は右に1海里、前後に3分という精度だった。
 
二式大艇での搭乗時の様子の記述あり。弁当は一人当たり4食分、搭乗員は12名だから48食が持ち込まれる(一人がまとめて運ぶ)。小型エンジンのついたゴム浮船で艇に近づき、左舷後方の入り口からひとりずつ乗る(機種右側にもブイ取り用の小さな出口がある)。点検後エンジン始動するが、暖機に20分ほどかかり、指揮所で整列出発してから離水するまで1時間もかかった。
 
レーダー妨害用のチャフの話が書いてあるが、ここでは3cm幅で長さ1mの厚紙に錫箔がぬってあるもの、としている。これを撒くのは尾部銃座の射手の役目。偵察終えて帰投するときには敵機が確認できなくてもばら撒いた。
 
【南海の空に燃えつきるとも】(佐々木孝輔)
トラックへからの帰途、ダバオで1番エンジンである右側外発の油漏れがひどくなり、3発で離水を行う。方向舵とエンジン出力の調整で直進させようとするがどうしても右側にふられる。3回やり直してようやく離水できた。故障したエンジンのプロペラはロープで固定したそうだが、通常150ノットの速度が出るところ、115ノットしか出なかった。
この前に「停止空転(フェザー)状態にして飛行したことがあり」とあるが、 今回はなぜできなかった?また、フェザーリングって本来ならプロペラピッチが90度になって空転しない状態じゃないのか?
日本海軍ではゼロピッチという発想がなく、暖気の時には水面を滑走し続ける必要があったとあるから、完全な90度のフェザーリングもできなかったのかも。
 
あ号作戦の後、19年7月に補八五一空飛行隊長の辞令後、すぐに横須賀航空隊教官兼分隊長となり、横空に戻る。同時に審査部も兼任し、蒼空の木型審査にあたる。蒼空は3階建てで2階が人員90名の客室となっており、畳が敷いてあったそうだ。 3階の前方が乗務員室、後方が旅客用士官室12名分。
ちなみに二式大艇の輸送機版晴空の座席は62名で、椅子は重量を配慮して籐製だとか。
 終戦直後は二式大艇の空輸を指示されたそうだが、途中でキャンセル。その後日辻少佐が空輸することになった。
 
 
こっちはちがうもの?
炎の翼「二式大艇」に生きる

炎の翼「二式大艇」に生きる

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 2010/07
  • メディア: 単行本

陸軍 実験戦闘機隊 渡辺洋二 [書籍]

陸軍 実験戦闘機隊―知られざるエリート組織、かく戦えり

陸軍 実験戦闘機隊―知られざるエリート組織、かく戦えり

  • 作者: 渡辺 洋二
  • 出版社/メーカー: グリーンアロー出版社
  • 発売日: 1999/08
  • メディア: 単行本
巻頭の写真は飛行中のキ51、駐機状態のキ45改、Bf109E-7を追随するキ60、一列に並べられたキ60とキ44、修理中のキ44増加試作機、捕獲されたDC-5、P-40E、バッファロー、JRF-5グースと並んだA-20ハボック、日の丸のついたFw190A-5、ロ3弾を下げた一式戦、テスト中に接触事故をおこしたB-17D、キ102甲、橇をつけた99軍偵、100式司偵4型等。
 
第一部 審査に邁進(昭和14年12月から19年10月)
【第一章 テスト機材:キ43-I、キ44、キ45改、キ60、交戦:キ61(対B-25B)】
部隊のルーツは大正13年(1924年)に設立された所沢陸軍飛行学校の研究部。航空が兵科として独立した大正14年5月に航空本部技術部として昇格。昭和10年に航空本部が改編されたとき、陸軍航空技術研究所、通称技研となる。さらにこの技研から実用テストと審査を行う組織として陸軍飛行実験部が独立する。これが昭和14年7月3日の制定、12月1日の施行。
ちょうどそのころ遠距離戦闘機が必要になったことから、隊でキ43を一式戦に仕立てるためのテストが始まることになる。このテストを担当したのが荒蒔義次大尉で、転属してきたのは昭和15年の暮れとある。大尉は第42期士官候補生出身で第37期操縦学生を昭和6年に終えている。操縦経験は甲式四型以降の大抵の陸軍機に加えて海軍の零戦、九九艦爆、強風、九七式大艇もあり。
荒蒔大尉の燃料消費テストでは1時間あたり63リットルの結果が出ている。
空戦性能のテストでは初日は明野の九七戦に太刀打ちできなかったが、2日目に沢田貢大尉が乗った九七戦に飛行実験部の岩橋大尉のキ43が縦の格闘戦に持ち込み勝利する。64戦隊の加藤建夫少佐は当初キ43に反対していたらしいが、理由は不明。
Bf109E-7と国産機の性能比較は昭和16年7月に行われた。ロージヒカイト大尉が乗った際には模擬戦にならなかったが、岩橋大尉がBf109に、荒蒔大尉がキ44が乗った場合では低位戦、高位戦でもキ44が優勢となった。ちなみにロージヒカイト大尉と一緒に来日していたヴィリー・シュテーア氏はロッテ・シュバルム編隊空戦方法を陸軍に紹介した人。
キ60とBf109の比較テストは9月から10月にかけて行われ、速度と上昇力はほぼ互角、空戦性能もほぼ互角と判断された。キ44との比較では速度がやや劣り、格闘戦能力も空戦フラップを使った場合は適わなかったが、横転を除く機動性は優れ、着陸特性も上だった、らしい。ただし総合的にはキ44が上。
 
B-25が来襲したとき、キ61で出撃したのは梅川准尉と荒蒔少佐。すぐに用意できた演習用撤甲騨を装備して先に出たのが梅川准尉で、霞ヶ浦上空でホームストロム少尉操縦の40-2282に一撃を加えることができた。
 
【第二章 テスト機材:キ84、キ96、Bf109E、Fw190A、P-40E、バッファロー、ハリケーン、、ホ103上向き砲、防弾タンク
Bf109Eは明野飛行学校でテストしたときのエピソードとして、着陸時に低速なったとき尾部が下がりにくく、水平姿勢で接地するとバウンドが激しくなって機体が傾き、翼端を地面にこすることが多かったとある。このBf109について、荒蒔少佐が急降下試験を行った。4000mから降下を行い、2000mをきったところで750km/hを記録。少佐の判断はキ44と比べて水平速度は互角、上昇力と旋回性、離着陸特性はキ44、急降下時の加速性と量産しやすさはBf109とのこと。量産のしやすさまで評価できたのか?
 
米英からの正式輸入機は昭和14年の10月に到着したDC-4Eが最後。戦闘機に限れば昭和13年のセバスキーPA-L。 これ以後は各地で鹵獲された機材が持ち込まれる。フィリピンでBとE型、ジャワ島、バリ島でE型が入手されたP-40に対する荒蒔少佐の評価。操縦席は広すぎるほどで「作りも性能も大まか。長所は下手なパイロットでも気軽に乗れるところ」。最大の欠点は降下時には左へ、上昇時には右へすべるためそのつどタブを調整しなければならないこと。荒蒔少佐の後任である坂井菴少佐は「P-40は癖が強い。Bf109と同じで、特に離着陸時に顕著だ。ただし、野外に放置しておいてもセルモーターですぐ発進できる」とコメント。
バッファローはF2Aではなく、オーストラリア空軍仕様のバッファローIとオランダ空軍のB339Dがシンガポール、マレー半島で入手された。荒蒔少佐は「低速時の舵がよく効き、沈みが適当にあって思い通りに素直に接地する」反面、「 操縦はやや鈍重で水平飛行時もかなり加速しないと沈み気味になってしまう」との感想。
同じくアレー半島とスマトラ島パレンバンで捕獲されたのはハリケーンIIB。飛ばしてみると急旋回時に失速に陥りやすく、格闘戦能力は高くない、上昇力もパッとしないが降下時の加速性は上々だそう。一式戦との比較では上昇力と旋回性能は間違いなく一式戦がうえだが、上空から斉射をかけて降下で離脱するならハリケーンに分があるとの印象。
 
キ84のテストにおいてはハ45とともにラチエの定速4翅プロペラの問題が多かった。調速器のスイッチ断・続の機構が不安定で、急機動や急加速時にプロペラピッチとエンジン回転数がかみ合わず過回転と過小回転を繰り返すハンチングが多発した。 ガバナーを製造する富士電機で回転軸に重錘振り子を付加して解決を見たのは19年になってから。
 
Fw190A-5の審査を神保少佐が始めたのは昭和19年。10月から副担任として搭乗した荒蒔少佐の感想は、離陸時の滑走は偏向癖がなく、上昇力も充分で、水平飛行時の加速も優秀、急旋回でも悪い癖は見られない。降下時の加速性はBf109には及ばないが良好、総合的な飛行性能は四式戦にも五式戦にも似ていてその中間あたり、というもの。
 
キ96を審査した林准尉は速度を殺し、旋回方向のエンジンを絞れば小回りが効き、キ84と互角の空戦も不可能ではないとの考え。ただし、このときは武装は装備されていないので、実際にはもう少し割り引く必要があるが、岩倉少佐も「単発機と変わらないほどの、素晴らしい飛行機」と評している。
 
熊谷航技中尉がキ84のテストを行った際、神保少佐から急降下は計器速度で750km/hまで絶対大丈夫とのアドバイスを受け、実際にその速度(真速度で800km/h)まで確認したとのこと。
 
技研で防弾タンク、防弾鋼板の参考になったのは米軍の捕獲機。ただB-17Dが使っていた耐ガソリン性のネオプレンが製造できず、タンクの外側に天然ゴムを張る外張り式を採用。この場合12.7mm弾に一応耐えられた。
 
【第三章 テスト機材:キ61-II、キ-61II改、キ94-I、キ102乙、メ101、タ弾、ロ三弾】
キ84のぺ32はラチエの電気式は宮川利雄少尉、勝又智博少尉によると、覚えてしまえばハミルトンの油圧式より整備も楽らしい。ただし、初期にはピッチ変更を伝える電気接点の接触圧力不足、電気接点への潤滑油の付着などのトラブルが多かった。
 
キ102乙を審査した島村三芳少尉によると、「上昇力に乏しく、速度も飛行特性も芳しくない」との判定。ホ401の射撃テストでは初速が遅いため弾体が見えるほどだった。カタログでも毎分80発なので、一回の地上攻撃で2発しか打てないがあたれば57mmの威力はすごかった。
 
59期操縦学生出身の鈴木金三郎准尉は昭和20年2月27日に北京から福生までの3200kmを百式司偵4型で飛び、平均700km/hの速度記録を達成したとある。ホントか?
 
荒蒔少佐はキ94-Iのモックアップ審査の頃に研三にも乗っている。陸軍ではただ一人。キ94-Iの審査時、エンジンや過給機の位置に無理があったことも挙げられたが、何より機外脱出が困難というのが中止になった第一要因としている。危険性の高い研三には乗っても、キ94-Iの搭乗はきっぱり断ったそうだ。
 
帯広で行われた17年から18年の雪橇試験は、一式戦、二式戦、九七重爆、九九双軽、百式司偵などが行われた。百式司偵は性能低下がひどかったために一度で中止された。次の18年12月から始まった試験では一式戦、二式戦、三式戦、キ84が対象となった。雪橇はジュラルミン製のモノコック構造で、設計は第一航空技術研究所と審査部飛行機部、製造はオレオは岡本工業、橇本体は宮田製作所だった。橇をつけると単発機で最大速度が8~10%低下する。
 
昭和19年2月に着任した疋田嘉雄少尉によると、ハ40はいくらか粗製化の傾向はあるものの、ちゃんと整備すればよく動いたらしい。実戦部隊での不評は整備力の不足が原因と推測され、川崎の岐阜工場で完成機を抜き打ちで選んでテストしてもとりたてて不具合は見られなかった。エンジン整備のスペシャリストでもある小島修一軍曹も「ハ40そのものは悪くなかった」との意見。また、ハ140についても疋田氏は「特にひどくはない。アブラ漏れなど熟練工不足の弊害は出たが、ちゃんと動きました。」 、小島氏は「とりたてて整備しにくいことはありません。大体は動かしていた」との回想。
 
タ弾は0.7kgの小型弾を30発つめたものと60発つめたものの2種類があった。陸海共通兵器らしいが、海軍の2式6番21号爆弾とは小爆弾の大きさや弾体の形状が異なる。効果的な投下条件を調べるためのデータ収集は満州で行われ、九九双軽を飛ばせてそれが地面に落とす影を目標に投下した。またこの白城子では他に普通の爆弾を空対空用にした曳火爆弾、小型爆弾を長いピアノ戦で曳航し敵機に引っ掛けるト三弾、小型爆弾に落下傘をつけ敵機に当てるト二弾、小型噴進式のロ三弾もテストされた。ロ三弾は8kgで破壊力は九九式8センチ高射砲弾と同じらしい。初速は200m/sで速くはないが、テストはうまくいった模様。しかし生産はされなかったらしい。ちなみに海軍は3式1番28号爆弾と18試6番27号爆弾というロケット弾を実戦で試用、前者の対水上目標タイプは相当作って配備されたとのこと。
 
見越し偏向射撃を自動で行う照準器も昭和19年秋頃にテストされたらしい。原理構造についての記載はないが、射撃が得意でない畑俊八航技中尉のテストで命中率60%、得意の来栖良航技中尉は80~90%だった。また島村三芳少尉もこの審査にあたっており、「自動照準眼鏡メ101」の名前があったと記憶している。
 
【第四章 テスト機材:キ四三-III、キ一〇二甲、ハ一一五、アルコール燃料、ホ二〇四上向き砲、タキ二号】
黒江少佐はキ102甲の審査を担当。甲は乙に比べてエンジンがハ112ルになったこともあり、高度10,000mでも一通りの機動ができる。装備は胴体下部のホ5 20mm×2、後席のホ103 12.7mmは同じだが、機首の武装が乙のホ401 57mmの発射速度が毎分60発で携行弾数も16発しかないのに対し、甲のホ204 37mmは発射速度は6~7倍で携行数も35発だった。一発あたりの威力も口径は小さいものの、初速は500m/sから710m/sに向上しているため遜色ない。
 
整備隊の四五班ではレーダー装備機の評価を始める。陸軍が最初に試作したタキ二号電波票定機は18年10月、二式複戦甲型に取り付けてテストしたが実用不能の判定となる。そこですぐに改良型タキ二号が開発され、二式複戦の機首にとりつけられたものが昭和19年8月ころに福生に持ち込まれる。この改良型タキ二号の有効距離は対双発機の場合で200m~3.2km、重量130kgだった。テストの結果は散々で、 使い物にならなかったようだ。
 
一式戦III型が福生に来たのは19年半ば過ぎ。速度は文句なしに向上したとの事だが、佐々木勇軍曹によるとそれ以上に「飛行機自体が軽く感じられた」、「上昇性能のほか、機動特性として、旋回の持続性に強い粘りをともなったように思う」との印象。 パワーがあがると操縦特性までもかわるものか。
また二型のハ115に対して最大回転数を100rpm増にする通達が出たが故障が続出。審査部でテストしなおしてやはり無理との結論になった。
 
昭和19年の暮れ、仙波少尉と市原少尉が複座の四式戦で訓練をしたとある。応急の改造機らしいが詳細はない。
 
アルコール代用燃料のテストも行った。ガソリンと混合して使える一号(無水)アルコールと低純度で混合できない二号アルコールの二種があった。アルコールを使用すると、気化性が悪くて始動が困難、アンチノック性が低い、混合気の調整がシビア、金属材料に対する腐食性が大きい、気化器のノズル径の拡大が必要などの欠点が多々ある。審査部で一式戦でテストした際のエピソードとして、燃費の悪さに驚いたとある。二式複戦はアルコール燃料で高度10,000mまで到達できた。またエンジンの全開高度が300mほど高まり、最大速度も15km/hほど増大したそうな。キ102ではアルコールを混ぜると、ガソリン分だけの飛行時間しか確保できず入れるだけ損とのデータがでた。また混合比の幅が少ないため、気筒の上下位置で燃料濃度に差が出る星型エンジンは不向きで、倒立Vのキ61向きとの意見も。
 
航空工廠で37mm ホ204を追加改造された百式司偵が福生に来たのは19年9月。ホ204はホ203に対して全長は1mも長い2.5m、初速も25%増しで弾丸重量も20%増えていた。発射速度も3倍。全席と後席の間に70度の仰角で取り付けられた。テストではそれなりに目標の吹流しにあたったらしいが、照準器がなかったためキチンとした評価はされていなかった模様。
 
《第二部》 
【第五章】 テスト機材:キ一〇〇、キ一〇八、四式重爆、キ一〇九、ハ一四〇、マルサ装置、アルコール燃料、雪橇
             交戦:三式戦二型、四式戦(対B-29)
昭和19年11月、林武臣准尉が酸素過給システムを装備した一式戦闘機を審査中、第20航空軍の第3写真偵察飛行隊のF-13Aと遭遇する。酸素過給を行うレバーは座席右下にあった。
11月24日から本格空襲が始まり、審査部も邀撃にあたる。組織立った対応はなく、各審査担当の機材に乗って「てんでに発進」といった感じらしい。
熊谷技術大尉は三式戦二型でB-29と速度競争をする。高度9000m爆弾投下後の機体相手に目測で10km/hほど優速だった。この後攻撃を仕掛けたが、主翼に当たった敵弾が跳弾となってラジエーターを破損、プロペラが止まったような記述があるが、海軍の香取基地へとたどり着く。香取基地では田宮勝海准尉と遭遇。准尉は四式戦で2機撃墜後、同じく被弾して同基地に下りた。
三式戦二型は高度7000mまでなら10分以内で到達できるが、10,000mとなると30分かかる。上昇力を稼ぐため落下タンクはつけないが、戦闘を含めて40~50分の存空が出来る。
B-29への攻撃ポイントとして機内与圧用のエンジンを狙ったとある。どう絞り込んだのか与圧用は右側内側エンジンと推測したらしい。実際には両側の内側エンジンだから半分正解。しかし、実際にはピンポイントで狙えるほど余裕はなかったので実行されなかった。
 
キ67の話も少し。アルコール燃料試験では50%混入なら実用に耐えるとの結果。雷装のテストは海軍の追浜基地、横須賀航空隊で行われた。500km/hを超えると九一式航空魚雷が海面で跳ねたり、逆に深く潜りすぎたりしたが、1度50分下向きに装着したところよい結果が得られた。結構微妙な角度。
キ67ベースでは、酒本少佐が昭和18年11月に発案したキ109がある。初飛行は翌年の8月30日。地上目標に対しては照準器で狙ったとおりに命中 したが、3回の実戦では戦果を上げられなかった。昭和20年2月には試作2号機にル三排気タービンを装着して高度10300mまで上昇できたらしい。
 
キ108の機密室は長さ1.725m、直径0.9mの繭型のジュラルミン製。「空気を送り込むポンプがなく、二枚羽のルーツ・ブロアーで与圧を行う仕組み。ブロアーの摺動面積が大きいので、ある程度の時間飛んでいると、潤滑油の濾過が不充分なため温度上昇につれて煙が発生し、フィルターを超えてキャビン内に入ってきてしまう」とのこと。これに乗ったのは少なくとも岩倉少佐、黒江少佐、島村三芳少尉の3人。
 
昭和20年1月に審査部に戻ってきた荒蒔少佐は秋水班のトップとなる。秋水班は審査部の特兵部特兵隊の1グループらしい。使用機材はたか七型(?)、ク1-II、ク8-IIなど。当初、陸軍なのでパイロットはキ200と呼んでいたらしいが、それもそのうち秋水と呼ばれるようになったとある。この班も対B-29の迎撃に上がるときは三式戦II型を使用し、効果を上げた。
 
三式戦の空冷エンジン化は昭和18年の8月飛行実験部長の今川一策大佐が航空本部などとの合同会議で主張したのが始まりとある。それより後の昭和19年の初めから川崎の明石・岐阜両工場へ出向いた名取智男隊は「ハ140の出力向上には無理がある。性能を維持できない」と判断した。今川実験部長は19年4月には川崎に空冷化の検討を依頼。昭和19年9月、荒蒔少佐のあとキ61の審査を継いだ坂井少佐、名取大尉、総務部長の於田秋光大佐が川崎側および航空本部とキ61-II改の採用、生産について会議を行い、キ61II型改の生産は100機程度にとどめて内地の部隊にだけに使わせることになり、10月にハ112-IIへの換装試作を指示する。試作1号機は20年1月下旬に水滴型風防の三式戦II型を改造して完成。初飛行は土井氏の言う2月1日と坂井氏の言う2月11日の2つの説がある。
 
 昭和17~18年、18年~19年の冬季テストで一式戦、二式戦(単?)、三式戦の橇の審査が行われた。ジュラルミン製は丈夫で作りやすいが、雪が付きやすいので木製へ転換することに。製造はプロペラも作っていた日本楽器とスキー板の製造経験のある美津濃。四式戦用は美津濃が製造し、合板の上に綿布を張り、セルロイドのコーティングがされたらしい。出来は良かったとのことだが、実際に四式戦に装着してのテストは行われなかった。
テストの総合的な結果、木製はジュラルミン製に対して重量が20%と増しとなる。好ましい縦横比は4.5~5.5、主脚の取り付け位置は全長の55%が好適。合板の厚さは上面4mm、底面6mm、底面にセルロイドを貼ると着雪がほとんどなくなる。離着陸時の風は5m/sくらいまでなら問題なし。飛行速度は40~60km/hも悪化し、安定性もやや損なわれる。
 
【第六章  交戦:一式戦III型、四式戦(対F4U)、三式戦II型(対F6F)、三式戦II型、四式戦(対B-29)
交戦記録が主。その中の一つ、黒江少佐はF4U12機対して1機で攻撃を仕掛けるが反撃を受け、全体で40発以上、胴体にも十数発を被弾。しかし、本人にはかすり傷もなく福生に無事帰還している。
黒江少佐はキ102甲でB-29の迎撃にも参加、高度10400mで37mmと20mmの斉射をかけたがエンジンンに被弾する。この日はそれまでだったが、別の日にもB-29を攻撃、被弾させて高度100mまで下がったのを確認。しかし太平洋上まで追跡したものの撃墜は未確認。 キ102は高度12000mまで上昇可能で、9000mでも機動が可能だった。
また同じキ102でも島村少尉は乙型の57mmをB-29に命中させている。その後三式戦が体当たりして墜落した。
 
佐々木曹長、黒江少佐は20年4月に四式戦で迎撃に上がり、黒江少佐は撃墜2機と不確実撃墜1機、佐々木曹長はそれぞれ1機と2機という戦果を上げている。
 
【第七章 テスト機材:キ九四-II、キ一〇六、キ一一五、秋水軽滑空機、特呂二号、タキ二号
                   交戦:一式双発高練(対P-51D)】
昭和20年2月、中国でP-51Cが捕獲される。内地への運搬は船を使うことが検討されて一部分解されたが、空輸に変更される。審査部から坂井雅夫少尉が出向いてこれらを組みなおし、同じく審査部の光本准尉が内地へ運んだ。途中の漢口で破壊目的に十数機のP-51が来襲したが捕獲機は無事だった。
 審査部に運ばれてからの審査主任は坂井菴少佐だったが、乗っている時間は黒江少佐のほうが長かったらしい。 写真も載っているがシャークマウスなど国籍マーク以外はそのままで、元のストロウブリッジ大尉の撃墜マークも残したまま使っていたようだ。四式戦との比較で、水平面の旋回性能はブースト圧プラス200ミリの巡航出力状態では五分五分。100オクタン燃料を入れブーストを400に上げればP-51Cが勝る。黒江少佐のコメントは「一口に言えば、調和のとれた素晴らしい戦闘機」「じつに恐るべきはこのムスタング」で、荒蒔少佐も「乗りやすく、速度、上昇力、格闘性のいずれもが優秀で、欠点を見出しにくい。機関銃や無線機を積まないテスト時のキ61試作機に似た感じ」との評価。キ61の試作機ってそんなにいいのか。燃料消費試験は100オクタンガソリンを使って行われ、硫黄島から本州までの1100kmを超えることを確認している。
P-51は黒江少佐が担当となって、各戦闘隊との模擬戦用に使われた。相手になったのは調布の244戦隊、柏の18戦隊及び70戦隊、下館の51、52戦隊、明野の教導飛行師団、伊丹の56戦隊、対象の246戦隊で、移動のたびに100オクタン燃料を列車で運んだそうな。その後明野に引き渡すことになったが、テスト中に発電機が燃えてそれ以後は飛
べなくなった。

 

 五式戦II型の審査はキ61と同じ坂井少佐、名取少佐の班が担当。エンジントラブルもなく、景気高度で12000mの飛行もできたようだ。

 
秋水の審査では機体もさることながら、運用方法も課題で、飛行服や食料、燃料車、航空医学、薬液貯蔵の土木工事なども検討対象だったようだ。無線誘導の可能性を検討するために荒蒔少佐は東北大の八木秀次博士まで尋ねている。ロケット・エンジンのテストを行っていた際のエピソードとして、燃焼が強すぎて陸軍の技術陣が苦労していたところ、研理化学研究所の加藤千世博士が乙液の水の添加量が少ないことをすぐに指摘し、安定した燃焼が実現できたとある。

 秋水試作二号機は陸軍用で、これはキ200の1号機としている。重滑空機を三菱から運んだのは荒蒔少佐。少佐の言葉として「秋水だけは怖かった」というのが紹介されている。ちなみに曳航用の適当な飛行機がなかったので、海軍から天山と操縦、偵察、整備の士官を借り、その後の訓練も担当したそうだ。

四式重爆を改造して75mm88式高射砲を搭載したキ109の操縦桿を握ったのは黒江少佐。実射テストの結果、姿勢が安定していれば命中精度は十分との判断。

キ94-IIは立川の疎開工場になっていた葛飾区金町の帝国製麻というところで試作が進められていた。8月10日に工場の庭で試運転が行われ、初飛行予定は18日に予定されていた。工場の外に出すために工場の門を壊す相談をしていたという話が面白い。

木製化された四式戦であるキ106は立川で作られたが、生産は王子製紙の札幌の工場でも行われた。8月初めまでにすくとも3機が完成、黒江少佐が完成式に出席し、アクロバット飛行を披露した。重量が400kg増えたことによる上昇力の低下が目立つ以外はこの時点では大きな問題はなかった。しかし、審査での強度試験で620km/hで降下し引き起こしを始めた時点で右翼下面の外板が吹き飛んでしまった。

キ115は「飛べるには飛べた」というくらい。松根油は五式戦で試したところ、離陸はできたものの上昇性能が悪くなり実用は無理とわかった。


プロペラ飛行機の興亡 黒田光彦 [書籍]

プロペラ飛行機の興亡

プロペラ飛行機の興亡

  • 作者: 黒田 光彦
  • 出版社/メーカー: NTT出版
  • 発売日: 1998/07
  • メディア: 単行本

 
人が飛行を試みた黎明期からWWIIあたりまでの発達史といった感じか。飛行機械そのものだけでなく社会的なエピソードもあり読み物としてもそれなりに面白い。しかし、あちこちのページに掲載されている、いかにもメモ的に書かれたイラストはいかがなものか。
 
【1章 プロペラ飛行機の夜明け前】
モンゴルフィエ兄弟の熱気球が成功したのが1783年。気球に動力をつけて自律的に移動できるようになったのは1852年のフランスはジファールの気球。この具体的な形態の説明はないが、「怪しげな蒸気機関と怪しげなプロペラ」が使われていたとのこと。動力としてはじめてガソリンエンジンを使ったのはサントス・デュモンらしく、1898年にエッフェル塔一周に成功。
また成功したかどうかはともかく、人間が乗って飛ぶことを意図した飛行機械を作ったのはロシアのモジャイスキーだったらしい。こちらも具体的にどんな形態かという説明はないが、蒸気機関だったのは確か。
グライダーの作成、飛行実験を行った初期の例として模型で有名なケイレイの名前がある。リリエンタールの功績は翼断面形だそうだ。それまではほとんどが「板」だった。
アデールの飛行機械「エオール」は蒸気機関が動力だったが、燃料は石炭ではなく石油を使っており、機体の出来に比べるとエンジンとしてはそれなりに洗練されていた。ちなみに当時の蒸気機関車はコンデンサーがなかったらしいが、このエオールの蒸気機関はコンデンサーを備えていた。出力は20馬力、機体の重量は500kgぐらいなので離陸できない出力重量比ではなかったようだ。
機関銃で有名なハイラム・マキシムも飛行機械を作成しており、出力180馬力で機体重量3.5t、翼幅30mだったらしい。こちらも出力重量比で決して飛び上がれない値ではないが、やはり機体設計がまずかったようだ。 
動力物語 (1980年) (岩波新書)

動力物語 (1980年) (岩波新書)

  • 作者: 富塚 清
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1980/03
  • メディア: 新書

【2章 初めて飛んだライト兄弟】
ライト兄弟が作成したエンジンは直列4気筒の水冷で、ラジエターは右翼の支柱に沿って取り付けられた鋼管。シリンダーブロックは鋼板の溶接組み立て、カムとプッシュロッドで動く排気弁はあったようだが、吸気弁は一方向に流れるだけのものでガソリンは垂れ流し状態。プロペラの減速比は3.5で200rpmとのこと。
ラングレー教授の機体に使われたエンジンは「一説には」5気筒、星型ロータリーで空冷。出力は30馬力を超えていたらしい。どこかの博物館に保存とか復元されていなかったけ?
ライト兄弟の機体は陸軍通信隊に売れた。一方、カーチスは海軍の飛行船用にエンジンを納入していた経緯からか水上機として海軍が購入。エンジンはV型8気筒で50馬力は出ていた。
これほど有名で、功績もあるライト兄弟をテーマにした映画はまだ作られていない、らしい。
 
【3章 ライト兄弟に続いた人たち】
1909年から1914年頃までのヨーロッパの話。
フランスではこの時期にすでにエンジンの専業メーカーがあった。最初に成功したのはアンザニーの3気筒扇形25馬力。モーターサイクル用から発展。これは1909年に英仏海峡横断に成功したブレリオ11型に使われていたもの。サイドバルブ式で空冷。横断中にオーバーヒートしかけたが、雨が降ってきて何とか助かった。距離38km、時間32分は前年にライト兄弟が行ったデモフライトよりも短かった。宙返りに初めて成功したのもこのブレリオ11で、1913年のこと。ブレリオ11は日本陸軍も購入している。
 この頃のもうひとつの傑作機として、徳川大尉が日本発飛行で使ったアンリ・ファルマンが名がある。操縦桿とフットバーを使った3舵の操作法が確立されたのはこの機かららしい。エンジンはグノーム・ル・ローンの9気筒ロータリーエンジン。ロータリーエンジンの利点として、フライホイールが不要、振動軽減に有効とある。しかし回転にすることで冷却に有利というわけではない。弟のモーリスが作ったモーリス・ファルマンはルノーの空冷V8エンジン。こちらは日本も購入し、チンタオ攻略戦に使った。
ロータリー・エンジンはその後14気筒の180馬力まで発展し、1913年にドペルデュッサンが200km/hを超えた。
1913年5月に初飛行したシコルスキー設計のル・グランドはサイズ的にはB29に匹敵し、100km/hで高度1000mの飛行が出来た。エンジンは最初アーガス水冷直列6気筒の100馬力を4基装備、最終的には200馬力のエンジンになった。
 
【4章 第一次大戦とプロペラ機】
初めての軍用機はルンプラー・タウベとある。エンジンはダイムラーの直列6気筒の100馬力。遠距離輸送時は分解出来る機能があったらしいが、組み立てにどれほどの時間がかかるのかは不明。タウベは先のチンタオにあったため、日本軍のモーリス・ファルマンが送り込まれた。
自重370kgのモラーヌ・ソルニエG型はル・ローン70馬力で130km/hを出し、前方に向けて機銃を固定したことで活躍した。しかし、機銃のプロペラ同調装置はなかったため、3角形のデフレクターで弾丸をはじいた。アントニー・フォッカーはこのモラーヌ・ソルニエを真似てかつ、鋼管溶接の骨組み胴体にするなど改良を加えてフォッカーE1を作成する。エンジンもグノームのコピーだったが、馬力は20馬力アップの100馬力。さらにプロペラ同調装置も備えていた。でさらにこの同調装置を真似てイギリスが作ったのがソッピース・キャメルやフランスのニューポール。
 
【5章 飛び回った戦闘機の雄姿】
フォッカーE3の重量630kgに対し、ニューポール11の重量は480kgで、後の17は560kg。また単葉のフォッカーに対し、ニューポールは1葉半。これを、フランス語ではセキスプラーヌと呼んだらしい。半といっても翼幅が半分なのではなく、翼弦が半分になったもの。
日本の甲式1、2型はニューポールの11型。甲式3型は27型。ちなみに乙式はサルムソン、丙式がスパッド、丁式がファルマン、戊式はコードロンを表す。のちに「舵は甲三のごとく」と言われたのはこれだな。
フォッカーEシリーズは1915年から1916年にかけて出現したのに対し、ニューポールは5ヶ月遅れの16年4月頃から戦線に登場。さらにこれに対抗してアルバトロスが秋以降に出てくるようになる。アルバトロスの胴体は木製モノコック。モノコックにした理由として、佐貫先生のドイツはスプルースなどの丈夫で軽い材木が手に入らないから、という説を紹介しているが、筆者自身はドイツの家具好きからきているのではと推測。3型からそれまでの複葉から1葉半になったが、こちらは翼幅が半分のタイプ。単桁にしてしまったため、フラッターによる事故が多かったそうだ。
アーヘン工科大学のユンカース教授の専門は熱力学でディーゼルエンジンの他、ストーブとか作っていた。飛行機開発に手を出した最初の機体が襲撃機のJ4。ただし軍での呼び名はJ1で紛らわしい。エンジンの出力は230馬力あったらしいが、重量も2トンを超えていてたので上昇性能なんかは悪かった。ちなみにドイツ軍機は単葉がE(Eindecker)、複葉はD(Dopperdecker)、三葉はDr(Dreidecker)、複座機はCLと呼ぶらしいがこれはなぜかJになっている。
フォッカーDr1はソッピースのトライプレーンという機体を真似ているらしい。ただし構造は鋼管溶接で進化している。
イギリスの中戦はイスパノ・スイザのV8、180馬力を付けたSE5。最終的には300馬力まで出した。ただ、現代のV8のようにクランクピンの位相が90度ではなく180度になっていたので振動が多かった。
大戦後イスパノは自動車製造に手をつけ、ボンネットにはコウノトリのマスコットを付けた。このコウノトリはジョルジュ・ギヌメール大尉の所属していたコウノトリ中隊の部隊マークが由来。さらに自動車に関するエピソード。ランチアがF1から撤退するとき、メカニックをやっていたエンツォ・フェラーリが機材とチームを引き継いで会社を設立。そのトレードマークがバラッカ家の家紋である立ち上がる馬(リトランテ・カッバリーノ)。バラッカとはイタリア空軍でスパッドでエースになった人。どういう経緯でそれを使うことになったか説明はなし。
戦中あまりメジャーになれなかったローレン・ディートリックというメーカーも戦後自動車エンジンを開発している。それを担当したのが当時社員のエットーレで、後の「ブガッティ」に繋がる。ディートリックの航空用エンジン自体も優秀だったようで、中島が荻窪工場でライセンス?生産をおこなった。
 
【6章 第一次大戦後期の戦闘機】
大戦末期に登場したフォッカーD7はダイムラーの180馬力をつけていたが、速度性能は大したことがない。特徴はゲッチンゲン大学の空気力学科から提唱された揚抗比の優れた厚翼を採用したことで、ハング・オンができるらしい。D7は張線こそないが複葉、D8は単葉となった。エンジンも需要の高い列型エンジンが他に回されたのでまたロータリーに戻る。出力も110馬力と大幅に下がったが、最大速度はD7とかわらない190km/hだった。
メルセデス230馬力を4基または6基使ったツェッペリン・シュターケンは総重量13トン。問題だったのはこの重量を支えるタイヤの耐久性。また飛ばすだけでも大変で1機あたり300人ほどのメカニックが必要だったとある。
1918年になるとエンジンも高出力化が進み、RRはイーグルで350馬力、ローレン・ディートリックは400馬力、リバティーも400馬力に達する。いずれも水冷12気筒でディートリックのみW型。デ・ハビラントのDH10はリバティー装備で時速240kmを発揮。これを300機使った戦術爆撃を計画したところで終戦となった。
 
【第7章 大戦後の世界のプロペラ飛行機】
大戦後の1920年代は、その後の飛行機の性能を向上させる色々な新技術が登場する。
  • 発動機:過給気、潤滑油、高オクタン価燃料、固定空冷エンジン、可変ピッチプロペラ
  • 機体:引き込み脚、高揚力装置、気密室、低圧タイヤ、軽合金、モノコック構造
  • その他:無線電話、方向探知機、ジャイロ関係の計器や操縦装置
アメリカではカーチスJN4型、通称ジェニーが大量に払い下げられ、バーンストマーが活躍する。この機はカーチスOX5型90馬力エンジンを使っているらしいが、本田宗一郎が始めてレースに出たときのエンジンとある。レースってクルマの?
ニューポール・ドラージェ29型は日本陸軍でも甲式4型として制式採用になった機体。これの翼端を切ってエンジンをチューンアップした改造機が始めて300km/hを超える。スパッド13型の改造機がこれに対抗し、交互に記録を更新した。
スピードアップにはエンジン出力向上が有効だが、この時代効率的な方法はまだなく、プロペラのチューンが効いていたのではないかと推測。
速度記録のレギュレーションが明確になったのもこの頃。1924年に単葉のベルナール・フェルボアが413km/hをマークした。エンジンはイスパノV8のたぶん改造で、450馬力ほどだったよう。
1920年のゴードン・ベネット杯ではデイトン・ライト社のボウマンRB1は引き込み脚だったため、250馬力のホール・スコットエンジンでも230km/hを記録した。ちなみにこの機体がライト兄弟の会社の最後の製品となった。
シュナイダー杯の記録一覧が載っている。開催年、開催地、パイロット、国、機体、エンジン、馬力、総重量、平均時速の順で以下の通り。
  • 1913年:モナコ:プレスボスト:仏:Deperdussin:gnome14:160:1200:73.6
  • 1914年:ピクストン:英:S.Tabloid:Gnome19:100:650:139.6
  • 1920年:ヴェニス:ボロニア:伊:Savoia12:Ansaid12:500:2170:172.5
  • 1921年:ヴェニス:ブリガンチ:伊:MacciM7:Isotta12:250:1080:179.7
  • 1922年:ナポリ:ベアード:英:SSえLion:Nlion:450:1434:234.5
  • 1923年:コウス:リ・ハウス:米:CurtissR3:CD12:465:1246:285.5
  • 1925年:ボルチモア:ドウリトル:米:C R3C2:CV1400:619:1242:374.3(395.4)
  • 1926年:ハンプトン:ベルナルディ:伊:MacciM39:FiatAS2:800:1480:396.7(399.9)
  • 1927年:ヴェニス:ウェブスタ:英:S S5:NepierL:985:1450:453.2(514.2)
  • 1929年:ワグホーン:英:S S6:RR R:1920:2381:528.9
 1920年代、ターボも作られてはいた。日本陸軍もフランスのラトーのものを輸入して試製3型戦闘機を試作した。が、試験飛行までも行かなかったらしい。
耐ノッキング性を数値化したオクタン価についても数値化されたのはこの頃。ノッキング性を測るCFRエンジンを作ったのはイギリスのリカルドだが、数値化したのはGMのケタリングらしい。スーパーマリンS6Bの燃料はベンゾール30%、メタノール60%、アセトン10%という配合。
陸上機はフェルボアの記録の10年後にGBスーパー・スポーツスターが470km/hを記録。ハワード・ヒューズはH-1を作り、1935年には564km/h、L.A.-N.Y.間を平均532km/hで飛行する。零戦などと同じ、胴体後端をとがらせるスタイルにしたのはH-1が初らしい。
 
【8章 「大飛行時代」を迎えて】
1920年代から1930年代前半の大飛行時代で、遠距離飛行の障害となっていたのは機体そのものの性能以外にエンジンの信頼性があった。燃料系や潤滑系だけでなく、点火プラグや電装系が未成熟だったので、雨に弱かった。またラジエーターの電蝕による漏水も多かったが、冷却水がエチレングリコールになった頃から減ったらしい。
 
【9章 大西洋征服とリンドバーグ】
リンドバーグが達成したのは初の大西洋無着陸横断ではなく、N.Y.-パリ間の無着陸横断。大西洋無着陸の初横断は1921年のビッカース・ビミーをつかったブラウンとオウルコック。
ライアンNYPの原型はブルーアムという旅客機もしくは郵便機で、この機体の胴体を伸ばし翼幅を延長したもの。翼断面は下面が平らなクラークYで、これはフリーハンドで描かれたものを風洞試験して採用したらしい。エンジンはローレンスという人物が開発していたのをライト社が買い上げて製品化したホワールウィンド。
同時代のかのジュピターは最初は1922年頃にイギリスのコスモス社売り出したのをブリストルが買い取って改良、1923年にジュピターとして製品化した。ジュピターをライセンス生産した中島のエンジニアの話として、ジュピターは1931年に7型になった頃から信頼性が飛躍的に向上した、とのこと。
木製モノコックボディのロッキードのヴェガは当初ホワールウィンド装備だったが、P&Wのワスプが出てからはそちらが使われた。翼断面も高速機用として開発されたNACAの5番号シリーズが採用されている。性能的にはNYPの最高時速220km/hに対して285km/hとなった。
ヴェガを使った記録のひとつはワイリー・ポストとハロルド・ゲティの世界早周り飛行。1931年5月に8日と16時間で達成。このときの機体はワスプの1段過給機にもう1段追加し、高度1万mでも地上と同じ450馬力を発揮した。
また、この頃、1923年にレーヨンが開発され、大重量を支えるタイヤが製造可能になった。またその10年後にはさらにナイロンコードが開発され、総重量63トンのダグラスB19のタイヤにも採用された。このタイヤは2本しかなかったので1本当たり31トンを超えていた。
 
【10章 太平洋横断に挑んだ人たち】
太平洋の初の無着陸横断は1931年のミス・ヴィードルだと思っていたが、世界的には1928年のキングス・フォード・スミスの米豪間の飛行を指すことが多いらしい。使用機体「サザンクロス」はフォッカーF7a・3Mでエンジンはライト・ホワールウィンドの3発。
マック・ロバートソン杯競技は1935年の英豪間の連絡飛行。ロンドン-メルボルンの飛行で1位がデ・ハビラント・コメット、2位はオランダKLMのDC2、3位はボーイング247。ボーイングにはパングボーンも乗っていた。
ロッキード社はアラン・ロッキードの創設。ほんとの綴りはLougheadらしい。ロッキードの機体はシリウス、アルテア、オライオン、ロードスター、ハーキュリーズと天体シリーズが続く。
なお、パングボーンとミス・ヴィードルにで記録をつくったハーンドンはこの間の航空ファンでは「操縦覚えたて」とあったが、ここにはすでに1200時間の飛行経験があったとある。このベランカとライアンNYPのスペック比較あり。エンジンはP&W Wasp 450 HPに対してWright J3C 235 HP、離陸重量は4500kgに対して2400kg、翼面積は25.4㎡と29.6㎡、プロペラは金属製調節ピッチと木製固定ピッチ、記録は7874km(41h13m)と5800km(33h33m)。ベランカの翼断面は少し変わっていて前縁から30~40%の位置が最大圧になった後、70%のあたりでもう一度膨らんでいる。また記録時の燃料も工夫がされており、通常燃料のほかに離陸時専用にベンゾールが使われた。なお、機ヴィードルはスポンサーであるタイドウォーター石油のエンジンオイル製品である「ビードール」からとられた。
 
【11章 やってきた飛行艇の時代】
 SM55の初号機サンタ・マリア号がアルゼンチンまで飛行したのは1927年。12機編隊で渡ったのは1932年。1934年にはシカゴ万博に合わせて24機でエリー湖までたどり着く。SM55の製造にあたってはサボイア社近くのマジョレー湖周辺の船大工が動員された。
DoXは当初ブリストルからのライセンスでジーメンスが製造したジュピター500馬力を12基使用。ルフトハンザに納入されるときにはカーチス・コンカラー600馬力になっていた。せっかくの主翼上面にこれらを並べてしまったのは、始動をスムーズに行うためではと推測している。これだけの数を慣性始動機もなしで順次スタートさせるのは確かに大変かも。
チャイナ・クリッパーとなったマーチンM130を使ったパンナムのサンフランシスコからグアムまでの運賃は800ドル。日本円換算で2000円で、当時の日本陸海軍中将の月給くらい。
日本海軍は大正15年型の15式と(モデルはショートF5)を120機製作。次にスーパーマリン・サザンプトンがモデルの87式を15機、さらにショート・カルカッタがモデル90式を4機、91式は47機作った。97式は昭和12年の制式で、これを輸送機に改装した機体が昭和14年3月から南洋諸島への定期航空に使われた。料金は横浜サイパンが200円で、これは小学校の校長先生の月給くらい。
 
【12章 旅客機とエアラインビジネス】
 アントニー・フォッカーが最初に作った旅客機はフォッカーF1。その後いろいろ改良してF7から結構売れ始めた。アメリカにはめぼしい会社もいなかったこともあって、アメリカン・フォッカー社を設立し軍に売り込みをはかる。F7ベースにライト・ワールウィンドの3発を付けた新型機が開発され、これがフォッカー3Mとなる。
フォード3Mはフォッカー3Mを金属製にして大型化しただけ、とある。どれだけ参考にしたかは書いていないが、構造システムはほとんど同じで外板に波板のアルミ合金板を貼ってあるのが相違点。アメリカ中で使われたらしいが、製造数は300機程度とある。
波板はユンカースが有名だが、こちらで使われていた外板は0.4mm程度で、0.8mmほどの平板と同じくらいの剛性があった。
戦闘機メーカーだったボーイングがP&Wとハミルトン・スタンダードを手に入れW80という旅客機を開発したとある。傘下に入ったってことか?まぁ、それはともかく、次にエアラインに手を出すことになりユナイテッド航空を設立する。で1933年からノースロップ・デルタをまねたボーイング247の生産を始める。
これに対抗したダグラスはDC1を1機だけつくり、細部を改良してDC2を開発。これを拡大して寝台機として開発されたのがDC3で21人乗り。さらにエンジン出力や全備重量が2倍となるDC4を作ったがまったく売れず、3機の試作機のうち1機を大日本航空が購入。中島が手本にして深山を作った。
 
【13章 一般航空、スポーツ航空】
1924年にデ・ハビラントが作ったのがモスで、複葉二人乗り、エンジンは直列4気筒で60馬力のシーラス。価格は高級乗用車なみで、翼が折りたためたので一般人が自家用車でひっぱり自宅に保管できた。1930年にはこのモスでエミー・ジョンソンが英豪間の単独飛行に成功している。すげぇ。ちなみに彼女と結婚したジェイムズ・モリソンは次のD.H.プス・モスで大西洋逆横断に成功。このプス・モスは朝日新聞も購入しているが、満州からの連絡飛行の際に行方不明になったらしい。
この後、イギリスではパーシバル社が木製モノコックのミュー・ガルという低翼単葉機を、フランスでもコードロンが同じく木製モノコックのシムーンを発売する。このシムーンではすでに翼端のねじり下げが採用されていた。
アメリカではテイラーというメーカーが3000ドルをきるカブを発売し、広く普及する。テイラーは後にパイパーとなり、スーパーカブを大量生産することになる。
ドイツではベルサイユ条約の制限があったため、グライダーが発達する。ハンナ・ライチェもそのグライダーで操縦を身につけたとある。使われた機材はゲッチンゲン3、クラニッヒ、ライヤー、オリンピア、ダムルシュタート、ハビヒトの名前が挙げられている。この間の航空ファンにこのあたりの話が出ていたか。
 
【14章 第二次大戦初期の飛行機】
チャンスポート社のコルセアは本来着弾観測用だったが、車輪をつけて空母で運用すると偵察任務には具合がよかった、とあり。その後にアメリカの偵察・爆撃機はSBだからチャンス・ボートならSBU、と書いてあるんだが、コルセアならO2Uだから別の機体?
日本の90式艦上偵察機は「元来」コルセアのライセンス生産で、これで急降下爆撃をやってみて、94式艦上爆撃機、96式艦上爆撃機を作ったとある。
ドイツとフランスの戦闘が始まった頃、フランス側の主力はイスパノ水冷V12(900馬力)のモラン・ソルニエ406、ノーム・ローン(1000馬力)のブロッシュ152、ドイツ側はBf109E。Bf109Eにはかなわなかったが、MS406は太平洋戦争前のタイとの戦争でそれなりに活躍したらしい。対抗措置としてタイは日本から97式単発軽爆撃機と97式双発重爆撃機を輸入した。このときの代金は米だったとか。
 
【15章 戦闘の数々-航空撃滅戦】
フィンランドにソ連が侵入してきたのは1938年10月、このときフィンランド軍の装備はフォッカーD21が36機のみ。
トップエースになtったジューティライネン(70機撃墜)は列機を1度も失わなかった。
フィンランドがその後使用したのはアメリカからバッファロー、イタリアのマッキC200、ドイツが捕獲したカーチスP36、モラン・ソルニエMS406、撃墜したソ連のI153など。これ以外に同じく撃墜したI16のシュベツォフをバッファローに移植したり、MiG-3のクリモフをMS406に積んだりして使ったらしい。さらには機関銃もソ連機がつけていたシュカス銃なるものをつけたり、真空管もRCAシステムのものだからバッファローの無線機に使ったとある。
スウェーデンは双胴推進のS21と鋼管溶接の胴体に木製モノコックの翼を組み合わせたF22の開発をはじめる。F22のエンジンはダグラスDC3をライセンス生産を計画して作ったP&Wツイン・ワスプだが、ライセンスを購入していなかったため、戦後P&Wにロイヤリティを支払ったとのこと。
オーストラリアで作ったブーメランはテキサンベースだけど、胴体は新設計、翼も外翼は切り詰めて使っているが中央翼は新設計だとか。エンジンもスウェーデンと同じくDC3のライセンス生産を見込んでいたことから準備していたツイン・ワスプ。
三菱の金星もツイン・ワスプの発展型としている。そうだっけ?
ドイツのギガントはグノーム・ルローン800馬力を6基使って12トンのペイロード。離陸総重量44トンだから比率は28%。武装兵なら120人、丸腰なら200人乗れた。
フィゼラーのシュトルヒはアルグスV8の240馬力だが、離陸には50m、着陸なら30mでOK。
スツーカで戦車519両を破壊したハンス・ルーデルは、ソ連戦艦マラート号を撃沈した時には1トン爆弾で急降下爆撃をしたらしい。高射砲の弾を受けて膝から下を砕かれた時、後部座席に乗っていた軍医の応急処置で帰還できたとあるんだけど、どうやって治療したんだ?ルーデルは結局片足の膝下を切断することになったが、傷がふさがった1ヵ月後にはまたスツーカに乗ったらしい。
Bf109の優れた設計として、胴体と脚が一体になっていることが挙げられている。製造時に胴体が組みあがったら自立して移動できるからラインが簡単になるそうだ。
DB600系エンジンは各国でライセンス生産が試みられたが、イタリア、スウェーデンは成功、スペインは失敗とある。日本はどっちに入るんだろう。
 
【16章 日本の戦略偵察機の活躍】
朝日新聞社の神風号にもなったキ15は制式化され九七式司令部偵察機となる。この2型を海軍が採用して九八式陸上偵察機、通称神風偵察機。九七式の後継が100式司偵。偵察行為は各国で行われたが、連合軍は偵察後の分析が徹底していたそうだ。日本なら飛行機の数と種類を調べるくらいだろうな。
 
【17章 空母による機動部隊】
零戦の操縦系統で使われていた剛性をわざと低くして低速と高速での操縦性を同じにする方法は古くから知られていたとあるが、具体的な記述なし。
 
【18章 戦争末期の熾烈な戦略爆撃】
DB601系の双子エンジン、アリソンV1710の双子エンジンというのがあるが、RRバルチャーもV12のケストレルを2つ組み合わせたもの。同じくイギリスのネイピア・セイバーも水平対抗12気筒を2つ組み合わせたものだが、元のエンジンが何かというのはないなぁ。
エンジン出力向上のために排気量を上げる手段として、気筒径を拡大するというのがあるが、160mmを超えると異常爆発しやすくなる。ストロークを長くするとピストン速度が速くなってかじりや焼きつきが起こりやすくなる。小型シリンダーで回転数を上げるという方法をとったのが誉とある。ライト・サイクロンは気筒あたり3.3リットル、栄は1.99リットルだそうだ。回転数もサイクロンは最大2400rpmに対し、誉は3000rpm。もうひとつのアプローチとしてスリーブバルブを紹介。単列7気筒のアキーラから始まり、複列14気筒のハーキュリーズでは2800rpmまでまわして1400馬力らしい。
イギリスが夜間爆撃を行っていた際、ドイツ側は地上から夜間戦闘機に無線で指示を出す。これに対してイギリスはドイツ語を話せる人に誤った情報を流させて混乱させた。もし本物オペレータが女性ならやはり女性を用意するという徹底振り。
 
【19章 戦後の世界とプロペラ飛行機】
戦後の大型レシプロ機はB29のエンジンをP&Wワスプ・メージャーに変えたB50。同じくメージャーを6発(に加えてJ47も追加)使ったB36がある。イギリスでは試作だけだがブリストル・ブラバゾンが8発、サンダース・ロー・プリンセスというのがあるらしい。P&Wに対抗したライトはサイクロンR3350のターボコンパウンドエンジンを開発、ロッキード・スターライナー、ダグラスDC7Cが作られた。

航研機 富塚清 [書籍]

航研機―世界記録樹立への軌跡

航研機―世界記録樹立への軌跡

  • 作者: 富塚 清
  • 出版社/メーカー: 三樹書房
  • 発売日: 1996/08
  • メディア: 単行本 
メインの文章は富塚氏が書かれたものだが、出版されたのは逝去された後関係者が編集しなおしたもの。
 
【写真】
著者本人の肖像を含め9ページ。製作中の航研機もあり。
 
【航研機の世界記録とその時代】(山本峰雄)
世界記録と国際記録は異なるもの。航研機の周回航続距離記録11651.011Kmは世界記録、1万Kmの周回平均速度186.197km/hは国際記録。他の日本の国際記録は戦後の富士重工KMスーパー・ニッコウ号が作ったC1C級陸上機の高度記録9917mがあるくらい。
 
【第1章 飛行機の進歩と競争史】
ライト兄弟が1903年12月17日行ったフライトの最長記録は向かい風の中59秒、260mだった。ドーバー海峡横断横断に成功したのはブレリオで、1909年7月25日に達成。距離38kmで所要時間37分なので、時速62km/h。使用機体はアンザニ式3気筒扇形25馬力エンジンを載せたブレリオ式単葉機。
日本の初飛行は1910年12月。陸軍の徳川大尉のファルマン式は高度40m、距離3280m、航続時間4分。日野大尉のグラーデ式は高さ20m、距離1200m、航続時間1分20秒。
少し戻って1909年8月22日、フランスで開かれた航空競技会の記録は次のような感じ。航続距離180km、航続時間3h4m50s(ファルマン複葉機)、速度はカーチス複葉機90km/h、高度はアントワネット機の150m。これが数年後には飛躍的に性能向上する。1913年の9月29日のゴードン・ベネット杯でのドペルデュッサン単葉(ノーム気筒回転型160馬力)が時速203.85km/h。高度記録はメルセデス6気筒列方100馬力のDFV飛行機が7850m(1914年6月10日)、距離は周回でアンリ・ファルマン(ノーム気筒回転型80馬力)が1021.2km(1913年10月13日)。更に第1次大戦をはさむと更に向上すし、速度では1920年2月7日にニューポール・ドラージェ(イスパノ・スイザ8気筒V型水冷300馬力)の275.264km/hを記録。高度はリバティ400馬力装備のルペール機が8810m(1918年8月20日)、周回距離はサルムソン230馬力の双発ファルマン・ゴリアートが1872km(1919年9月9日)。直線距離では1919年6月にヴィッカース・ヴィミー(RR350馬力の双発)が大西洋横断3040kmを達成、となる。
もう少し下って1924年にはイスパノ・スイザ450馬力のフランスベルナール機が448km/hを達成するが、この後はしばらく(1927~1934年)水上機が速度記録を更新することになる。リンドバーグのニューヨーク・パリ間の飛行は1927年5月20日から行われ、時間33時間30分、距離5809kmだった。スピリット・オブ・セントルイスはライアンNYPでエンジンはライトホワールウィンド空冷星型9気筒200馬力。リンドバーグは駒場の東大航研も訪問しており、富塚氏らが創案した操縦者能力試験装置を試している。その結果は素晴らしいものだったそうだが、本人の許諾を得ていないので公開できない、らしい。
太平洋横断はハーンドン・パングボーンの二人が1931年10月6日に達成。飛行距離は7910km。
 
【第2章 日本の航空技術と東京帝国大学】
陸軍の発案により臨時軍用気球研究会が出来たのは1909年。委員は陸軍の井上仁郎、徳永熊雄、有川鷹一、日野熊蔵、笹本菊太郎、海軍から山屋他人、相原四郎、小浜方彦、奈良原三次、東京帝国大学から田中館愛橘、井口在屋、気象台から中村精男となっている。
 1914年第一次世界大戦が始まった頃、日本陸軍の操縦将校は14名に過ぎず、使用可能な機体もモーリス・ファルマン(ルノーV8空冷70馬力)など16機だけ。チンタオ攻撃に使用され、67日間の間に86回飛行、総飛行時間89時間となっている。
戦中、それまでロータリー式が主流だったのが、燃料消費量の多さやジャイロ効果による操縦性への悪影響から、固定式に移っていく。機体のほうも空気力学の観点からの研究が本格的になっていくが、当初は他の分野からの専門家が転入してくる。そのうちの一人がフランスの元土木が本業でエッフェル塔の設計者でもあるエッフェル。土木には水力関係の技術も科研刑するところから空力学への転進だったようだ。エッフェルはエッフェル式風洞というものを作ったそうだが、詳細は説明なし。
 
【第3章 東京帝国大学航空研究所の発足】
臨時軍用気球研究会に参加していた東大から1916年、独立の研究機関設立について文部省に建議書が出される。それを受けて航空学調査委員会が設けられた。委員は田中館愛橘、横田成年、田丸卓郎、井口在屋、栖原豊太郎、木戸小六の6博士。委員会の役割は研究所や講座の設立準備だが、エンジンを富士山頂に運びあげての高地試験などもおこなった。
航空研究所の公式発令は1918年。また工科大学に4講座、理科大学に1講座、航空関連講座が置かれた。 研究所の場所は深川区越中島というところ。当初格納庫も航空機もなかったそうだが、その後デ・ハビランドDH4軽爆撃機(RRイーグル9)、エンジン単体でリバティV12水冷400馬力が発注された。
関東大震災を受けて、1930年に駒場に移転。風洞部、飛行機部、発動機部、物理部、化学部、機械部、測器部などが設けられた。航空関係の研究は欧米がかなり先行していたので、ネタ探しに苦労したそうだ。
 
【第4章 所長交代と長距離機案突発】
1932年、所長交代の裏事情に絡んで長距離記録機製作が発案される。その裏話がイマイチ明確に書かれていないが、所員にとっては寝耳に水であったらしく、少なくとも皆が賛同して計画されたものではなかったらしい。しかし新規に航空ディーゼルエンジンを開発、2年で世界記録を達成するための費用として24万円を文部省に申請していたので、やらざるを得なかったようだ。ただ筆者らは計画開始にあたっては、まずそのディーゼルエンジンの新規開発を撤回させ、既存のエンジンの改良で済ませるということに落ち着かせた。
職務担当は主翼が深津了蔵、補助翼が谷一郎、プロペラ河田三治、燃料槽や車輪カバーは山本峰雄、胴体、脚、尾翼関係が小川太一郎、 木村秀政、広津万里。これに発動機関係として高月龍男、中西不二夫、富塚清、西脇仁一、石田四郎、渡部一郎の名前がある。また計器自動操縦は佐々木達治郎、燃料及び潤滑油が永井雄三郎となっている。
 
【第5章 計画の実施】
航研機の話が出たのが昭和7年、案がまとまったのが9年ごろ。軍の協力が必要であったが、海軍は批判的、陸軍は協力的だった。その流れからだと思われるが、使用エンジンは川崎航空機で作っていた中古のBMW9型(公称715馬力)を改造することに。機体の方は川西が乗り気であったらしいが海軍への気兼ねから話はなくなり、かわって東京瓦斯電気工業が名乗りを上げる。全金属製の機体作成の経験はなかったらしいが、現場にドボォアチンで働いたこともある工藤富治という人物がいたことでここに決まった。
ベースエンジンになったBMWは正式名称ハ-9II乙で、160mm×190mm(主)、199mm(副)、行程容積47リットル、毎分回転数1680、平均有効圧7.2kg/平方cm、馬力当たり重量1.01kgというスペック。これを毎分1800回転にあげ、気化器を中島二連八八甲型気化器ににしてリーンバーンタイプにする。そして過熱に対応するため、バルブを中空にし、空冷化している。既にその頃金属ナトリウムを入れた冷却が優勢になりつつあったが、航研での実績があったため空冷を採用。さらに過給機は取り外し、三菱で作っていたファルマン式の傘歯車減速機を取り付けた。ちなみに当初の計画にあった航空用ディーゼルは別に航研で検討されており、三菱重工の強力で1934年に水冷2サイクル90度V12を試作している。このエンジンのスペックは155mm×200mm、公称回転1500rpmで750馬力だった。 航研用の改造エンジンは合計3台作られたようで、完成までに2年10ヶ月かかったとしている。使用燃料も特殊で化学部の強力で100オクタンに近いものが使用できたようだ。最終的なスペックは最高出力870馬力、燃料消費率は1馬力1時間当たり約180g、空燃比17~18、オイルの消費量は1時間1馬力当たり5g程度でディーゼルと比較してもそん色ないものだった。中空の排気バルブは著者が担当したものらしく、詳しい構造、実物の写真も掲載されている。
 工長となった工藤氏は単桁構造のドヴォアチーヌD33の工法に精通していたこともあって、航研機もその影響を強く受けることになった。前者が全幅28.00m、全長14.40m、翼面積78㎡、650馬力に対して、後者はそれぞれ27.93m、15.06m、87.3、800とよく似ている。翼型は風洞部の深津了蔵、谷一郎の両氏によって決められた厚翼のもの。内部は単桁だが、捻り剛性をあげるため大圏構造っぽい斜めの補強材が入っていて、特許も取得されたらしい。また胴体や中央燃料タンクに枕頭鋲が採用されている。プロペラのピッチは固定で900rpmで回転させていた。
製作で最も苦労したのは脚で、ロープによる巻き上げ式の引き込み脚だった。単純に内側に畳むと桁と干渉してしまい、後に跳ね上げると完全に収容できなくなる。どちらも妥協できなかったため、一旦後に上げた後内側に畳むことになった。この動作が当初うまく稼動せず、改良のために1年を要したらしい。実際に機体が完成してテスト飛行中、脚がうまく出なかったため一度は胴体着陸をしている。結局本来の設計担当だった飛行機部では解決できず、改良を行ったのは筆者らの発動機部だった。
 
【第6章 航研機記録飛行】
記録飛行に当たっては食料についても工夫がされた。これには戦後栄養学者となった陸軍の川島四郎主計少佐が担当したとのこと。
飛行経路は木更津(飛行場)→銚子(灯台)→太田(中島飛行機)→平塚(灯台)の順で、カッコ内の目標を目印に周回した。
こぼれ話として、記録飛行に木村秀政氏が飛行の指示をだすために同乗したいとの申し出があったとある。本人の本当の意図は書かれていないが、却下されたようだ。
飛行開始は昭和13年5月13日の金曜日、午前4時55分。コースを29周し、15日の19時20分に着陸した。記録達成を祝って何度も祝宴が開かれ、天皇陛下との単独拝謁も行われた。
 
【第7章 航研機の回顧と反省】
組織として正確な、かつ詳細な記録を残すという作業が行われなかったこと大きな反省点として指摘している。特に計画の遅延を招いた脚の設計では、その担当者だけでなく、経験の少ないものに担当を割り当て、さらにその後十分な指導を行わなかったことを指摘しているが、これなどはどこの世界でもありそうな話。また記録挑戦を1度で止めてしまったことも確かにもったいない。1回目の飛行では後3周1200km分の燃料が残っていたそうだ。
ただ、多少のテストは行われており、操縦席も通常型の風防をつけたり、金属製の3翅ペラに変更したりしている。もっともその結果の詳細は書かれていない。その後は羽田の格納庫の隅に放置され、戦後他の機体と一緒にスクラップにされた。研究所自体も1946年に航空禁止令により廃止され、理工学研究所となる。1958年に航空研究所として復活し、1964年に宇宙航空研究所となる。それも1981年には宇宙科学研究所と境界領域研究施設に分離、校舎は1988年に廃止されるが、その前にそこから先端科学技術研究センターが派生している。
 
【あとがき】
1983年12月14日の日付。
 
【編集後記】(栗野誠一)
富塚氏が内容自体は1983年に出来ていたらしいが、出版までは行われなかった。出版に当たっては富塚氏の元の文章から個人的なトラブルに触れた部分は省かれたようである。逆に図面、写真などは含まれていなかったので関係者から提供を受けたとある。
 
【引用文献】
日本民間航空史話 (1966年)

日本民間航空史話 (1966年)

  • 作者: 日本航空協会
  • 出版社/メーカー: 日本航空協会
  • 発売日: 1966
  • メディア: -

 

『日本航空学術史』(1910-1945) 日本航空学術史編集委員会編 丸善(1990年)

『航空五十年史』 仁村 俊 鱒書房(1943年)

 
 

イカロスの翼 [書籍]

イカロスの翼―世界の航空機

イカロスの翼―世界の航空機

  • 作者: 小泉 和明
  • 出版社/メーカー: 朝日ソノラマ
  • 発売日: 1985/04
  • メディア: 大型本
 
イラスト集なのにほとんどモノクロで、1機あたりの数も少ないけど、なぜかかなりマイナー機が入っていて面白い。監修は松本零士だそうな。
 
【第1章 イカロスの夢】
プロペラ機の限界はどこに(ターボプロップエンジンの戦闘機)
ウエストランド・ワイバーン、ブレゲー・アリゼ艦上対潜機(既にタイトルと合っていない)、キャバリア・ターボムスタング3、ダグラスXA2D-1 スカイシャーク。
 
UFOは実在した(異色のフライング・パンケーキ)
ボート・XF5U-1は1939年(!)に開発がスタート。
 
素晴らしい飛行機野郎どもの愛機(複葉機)
フォッカー・Dr1、アントノフ・AN2"コルト"、グラマン・アグキャット、グラマンF3F-2、エアコ・DH2。
 
異母兄弟たちの活躍(DBエンジンの装備機)
Me109、マッキMC202(アルファロメオRA1000RC41)、川崎キ61、キ60。
 
音の壁は厚かった(音速を超えた後退翼機の傑作)
MiG-15、MiG-17F、ノースアメリカン・F-86F、FIAT・G91、フォッケ・ウルフTa183(?)
 
不運の天満たち(ハインケルの軸流ターボ・ジェットとその仲間)
He162、三菱・橘花、He178、He280、ヤコブレフ・YaK15、He176。
 
プロペラはどこへ行った(ダグデットファン機と初期のジェット機)
ロッキード・P-80、グロスター・G40、ベル・P-58エアラコメット、デハビラント・バンパイア、グロスター・ミーティア、カプロニ・カンピーニN1。
 
800km/hの壁を破れ(プロペラとジェットの複合機)
カーチス・XF15C、コンソリデーテッド・バルティP-81、スホーイ・Su-5、ライアン・F2R-1"ダークシャーク"、ライアン・FR"ファイアーボール"、ミコヤン・グレビッチ・I-250。
 
ダッシュはロケットで(ジェットとロケットの複合機)
リパブリック・XF-91サンダーセプター、シュドウェスト・SO-9050トリダンIとII、サンダース・ローSR-53、ノール・1500-02グリフォンII。
 
夢は成層圏をかける(ロケット戦闘機たち)
メッサーシュミット・Me263V-1とMe163B-1とMe163C、三菱・秋水、ハインケルHe176、ベレズニアクイザエフ・BI-1。
 
協力は強力(双子エンジン装備機)
景雲、川崎・キ-64、ドルニエ・Do335、ハインケル・He177
 
夢のスーパー・エンジン(実現しなかった原子力機)
ミヤシチョフM52、NX-2、コンベア・NB-36H。
 
【第2章 イカロスの牙】
ふくろうの目を持った翼(夜間戦闘機)
ハインケル・He219、ノースアメリカン・F-86D、ノースロップ・P-61、中島・月光三二型。
 
天上に注意せよ(タンク・バスターA-10)
A-10以外はヘンシェル・Hs-129、イリューシン・Il-2。
 
ゲリラにも明日はない(ゲリラ制圧専用機)
ロックウェルインターナショナル・OV-10ブロンコ、グラマン・OV-1ホモーク、FMA・1A-58プカラ。
 
一流スナイパーの構え方(モーター・カノン装備機)
デボワチン・D520、デボワチン・D510、ベル・P-39、メッサーシュミット・Me109B、川崎キ-88。
 
俺たちに滑走路はいらない(水上戦闘機)
コンベア・YF2Y-1シーダート、ピアジオ・P7、川西・強風。
 
もはや戦闘機は不要なのか(ミサイル・キャリアたち)
ダッソー・シュペルエタンダール、バッヘム・Ba349ナッター、ワルター・509A。
 
巡航ミサイルは40年前にもあった(飛行爆弾の存在)
中島・キ‐115剣、桜花22型、フィゼラー・Fi103/R3。
 
戦闘機だって大型爆撃機(ドイツの奇策ミステル)
ツポレフ・TB-3(ANT-6)にポリカルポフ・グクゴビッチI-5とI-16M-22とI-Z、Ju88G-1にFw190A-8、XF-85ゴブリン。
 
深海からの来訪者(潜水艦搭載機)
晴嵐、零式小型水上偵察機、アラド・Ar231 V1。
 
ジェミニはすてき(双子機)
ノースアメリカン・F-82Eツインムスタング、メッサーシュミットMe109Z、ハインケル・He111Z-1。
 
大型機に無限のランウェイを(大型飛行艇)
川西・二式大艇、ベリエフ・Be-12チャイカ、ドルニエ・DoX、マーチン・P-6Mシーマスター。
 
ヨガを身に付けたイカロス(空中停止の出来るヘリコプターの実現)
フォッケ・アハゲリス・Fa-223ドラッヘ、フォッケ・アハゲリス・Fw61、ミルMi24Dハインド、フレットナー・Fl265。
 
【第3章 イカロスの翼】
短足の勇者(逆ガル翼)
ボートF4U-1A、中島・7試単発艦上攻撃機、ハインケルHe112B。
 
変身の翼(可変翼の出現)
メッサーシュミット・P1101、ベル・X-5。
 
スピードは翼の形から(可変翼への実用化へ)
グラマン・XF10Fジャガー、マコーニン・MAK-123(翼幅が可変)。
 
鴨は空高く(先尾翼機)
震電、カーチス・XP-55アセンダー、アンブロシン・SS4、ペイヤン・P22、サーブ・37ビゲン。
 
爆音はあとからやってくる(マッハ2を目指した後退翼)
MiG-19、EE・ライトニングF6、ノースアメリカン・F-100D。
 
戦闘機を追い越せ(超音速爆撃機)
ノースアメリカン・XB-70、コンベア・B-58ハスラー。
 
マリリン・モンローの魅力(エリア・ルールの超音速機)
グラマン・F11Fタイガー
 
ターボは自動車じゃない(高高度機<1>)
ロッキード・U-2、ユンカース・Ju86R、ロッキード・P-38L、スーパーマリン・スピットファイアMk.VI。
 
成層圏をゆく(高高度機<2>)
中島・キ-87、立川・キ-108、タンク・Ta152H-1。
 
高く早く(高高度戦闘機<3>)
満州飛行機・キ-98、立川・キ-94IとII。
 
三角形は形の基本(デルタ翼はMiG)
MiG-21、Su-11。
 
流行はパリの香り(デルタ翼の傑作ミラージュ)
ダッソー・ミラージュ2000、コンベア・F-102Aデルタダガー、ダグラス・F4Dスカイレイ。
 
UFO再び(前翼は生き残るか)
ノースロップ・"バンタム"X-4高速実験機、ゴータ・Go229(Ho9)、ホルテン・Ho9 V-3。
 
飛ぶのは翼だ(ノースロップの前翼機)
ノースロップ・YP-56、YB-35、YB-49
 
最後の有人戦闘機(傑作インターセプターF-104)
 
ジェットだって止まれる(VTOLジェット機)
ヤコブレフ・YaK-36フォージャー、ホーカーシドレー・シーハリアーFRS.1、YaK-36"フリーハンド"(?)
 
滑走路はいらない(VTOL研究機)
コンベア・FY"ポゴ"、ロッキード・FVサーモン。
 
逆転の発想(前進翼をもった機体)
ユンカース・Ju287V1、ハンブルガー・HFB320ハンザジェット、グラマン・X-29。
 
スピードは男のロマン(超音速研究機)
ノースアメリカン・X-15、ダグラス・X-3スティレート、ベル・X-1、ベル・X-2、E-166、ダグラス・D-558
 
宇宙駆けるもの(スペースシャトルと宇宙機)
マーチンマリエッタ・X-24AとX-24B、ボーイング・X-20ダイナソア、 ノースロップ・M2-F2。
 

「ゼロ」の伝説 加藤寛一郎 [書籍]

「ゼロ」の伝説

「ゼロ」の伝説

  • 作者: 加藤 寛一郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1995/10
  • メディア: 単行本
 
加藤先生で「ゼロ」というキーワードだけから、零戦の左捻りこみの話かと思ったらなんと小説だった。しかも内容は「現代技術で零戦を作ったら」というネタがべースト思われる。このテーマでマジメに技術的な話をしても面白くないから小説形式にしたんだろうか。登場する機体は外見は零戦そのままで、機体は複合材で作り重量はオリジナルの1/3、エンジンはターボプロップで操縦系統はFBW。水平尾翼は全遊動式だそうだ。某掲示板の軍板でも似たようなテーマのスレがあったが、そことは違って専門家らしい技術的な記述は流石。ストーリーも唐突なところがあるけど、まぁそちらは主じゃないからいいのかな。でもエンジンの具体的な記述がほとんど無いのはちょっとズルイ。栄のサイズに納まるターボプロップはどんなものなんだろう。

祖父たちの零戦 神立尚紀 [書籍]

祖父たちの零戦

祖父たちの零戦

  • 作者: 神立 尚紀
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/07/21
  • メディア: 単行本
 
 
 
 
 
 
新藤三郎少佐、鈴木實中佐を中心にした零戦にまつわるエピソード集といった感じ。技術的な議論や空戦の詳細、機体の説明や比較などはほとんど無し。この手の本では大抵緒戦の頃から始まり終戦までで終わっているが、本書は戦後の仕事の内容から最期の模様まで続く。
 
【第一章 黎明】
初戦の中国大陸の話。
中国で零戦と交戦した相手側機体を「E15」、「E16」としているが、これはI-15,I-16もしくはイ15、イ16のことだろう。新藤氏は戦中に父親に「軍極秘」の書類を預け、昭和53年にそれが保存されていたのを再発見する。この書類は鈴木氏、志賀淑雄氏を始め、零戦の初空戦に参加した13名の内の岩井勉、藤原喜平、三上一禧の各氏、それに角田和男氏に贈られた。
新藤氏の回想で、零戦は座席の上下調整機構のおかげで前方視界が九五艦戦や九六艦戦に比べて広く、離着陸が楽になったとあり。ちょっと意外だった。
三上二空曹は昭和15年7月に十二試艦戦の高高度実験を行った。結果は1万900mが限界だった。
新藤氏が昭和11年ごろ、空戦訓練の相手をしたのが蝶野仁郎一空曹。この時にひねり込みを体得したらしい。ひねり込みは源田サーカス、岡村サーカス両方にいた望月勇一空曹が発案したとしている。
初戦では日本側が中国軍側の裏をかき、一旦引き揚げたと見せてデモンストレーションを始めたところを攻撃したというのが通説だが、本書では中国側の徐中尉の証言で、実は零戦が来ていたことに気づいておらず、別の空域に向かうところを攻撃されたとしている。
鈴木氏が初めて零戦に乗ったときの感想では、安定性が非常によいとの印象。九五艦戦や九六艦戦では操縦桿から手を離して飛ぶなど出来なかったらしい。
 
【第二章 奮迅】
真珠湾攻撃。
被弾して敵格納庫に突入したことになっている飯田大尉機だが、実際はカネオヘ基地の格納庫から1キロほどはなれた隊門に近い道路脇地面に堕ちたらしい。
真珠湾攻撃の直後に行われた台湾からのマニラ進撃については、計画時に航続力については軍内部でも疑問の声があり、最初は空母の使用が検討されていたのを現場指揮官が覆す形になった。その際に三空飛行長の柴田中佐の提案で燃費試験が行われ、どんな搭乗員でも毎時90リットル以下に抑えることが可能なことを実証した。P-40との戦闘では相手の性能の悪さにびっくりしたとあり。
 
【第三章 逆風】
ラバウル戦線。
603作戦前に204空では18年5月28日から飛行隊長・宮野善治郎の発案による1個小隊4機編成の訓練を始める。
 
【第四章 完勝】
 スピットファイアとの戦闘。
鈴木少佐が飛行隊長を務める202航空隊では、ポートダーウィン攻撃の前に隊長命令で全員髭を伸ばすことになった。見た目の迫力を出すためらしいが、酸素マスクをつければ見えなくなってしまうと後で気づく。コールドウェルと鈴木両氏はともに1910年生まれ。昭和18年5月2日の戦闘結果はスピットファイアの被撃墜5機(2名死亡)と燃料不足で5機、エンジントラブル3機の損失。零戦は7機が被弾したのみ、となっている。6月30日の戦闘では、一式陸攻24機の護衛のために27機が出動。日本側は被撃墜0(一式陸攻搭乗員2名が機上で戦死)、スピットファイア6機の損失。
 
【第五章 落日】
マリアナ沖海戦から特攻、終戦。
一航艦参謀長・小田原俊彦大佐が語る大西中将の特攻の真意。レイテから敵を追い出し、講和の機会を作る。日本本土での決戦を避けるためにフィリピンを最後の戦場にする。しかし今講和の話をしてもまともに取り上げられない。特攻それ自体の成功の見込みは無いが、天皇陛下がそれを知れば戦争中止を口にされる可能性がある。またどんな型で講和になっても、身をもってこれを防い若者たちがいたという事実と、それを知って天皇陛下自らが戦争を止めさせたという事実があれば500年後、千年後必ず日本民族は再興する。
 8月15日連合軍艦上機250機が関東上空に来週。厚木の302空の零戦52型丙8機、雷電4機、茂原基地からの252空戦闘304飛行隊零戦52型丙15機がこれを迎撃。302空はF6Fを4機、252空がシーファイア1機とファイアフライ(アベンジャー?)を撃墜。302空は零戦1機と雷電2機、252空は零戦7機が撃墜された。
 
【第六章 焼跡】
鈴木少佐は第205海軍航空隊・石垣島派遣隊の指揮官として終戦を迎える。台中基地に零戦を運ばされた後、そのまま機体を中国軍に渡し、高雄基地で中国軍パイロットの訓練を行った。
 
【第七章 変容】
坂井三郎氏は戦後香文社という謄写版印刷会社を営んでいたが、この名目上の社長は大西瀧治郎中将の未亡人だった。この人は笹井醇一中尉の母の妹でもあり、坂井氏が社長に招いた。「坂井三郎空戦記録」の執筆を依頼したのは日本出版協同株式会社の福林正之氏。福林氏は奥宮正武氏とも面識があり、その関係から坂井氏が紹介された。坂井氏が選ばれたのは当時東京にいて連絡の取れる者というのが理由だった。坂井氏も最初は依頼を断ったそうだが、説得され福林氏が坂井氏の話を聞いてまとめたのが先の本になる。その際に連絡が取れない関係者に配慮し、意図的に戦闘の順序を入れ替えたり、人の名前を仮名にしたりしたそうだ。
坂井氏は本が縁で米極東空軍のフランク・カーツ准将と面会する。その会話の中で昭和16年12月10日零戦がB-17を撃墜したときの話題が出た。台南空戦闘行動調書ではB-17を撃墜したのは豊田光雄飛行特務少尉、菊池利生一飛曹、山上常弘二飛曹、和泉秀雄二飛曹、野沢三郎三飛曹の協同と記録されているらしいが、この会談が一人歩きしてB-17を初めて撃墜した坂井という伝説が生まれた。
またこの会談の通訳を務めたのがフレッド・サイトウ氏で、坂井氏から聞いた話をマーチン・ケイディンという人物に伝える。その後彼がその話を元に1957年に「SAMUAI!」という本を出版、ここからエースパイロット・サカイという肩書きが広まった。撃墜数についても坂井氏自身は具体的な数を出したことがなかったそうだが、この本の売り文句のため64機という数が作られた。この64は宮本武蔵の真剣勝負の回数に由来したもので、坂井氏の実戦闘記録とは何の関係も無い数字だった。
「大空のサムライ」はこの「SAMURAI!」の逆輸入版だが、内容の脚色が多すぎるので全面的に書き直された。これが出版された後にはゼロ戦ブームが到来するが、他の元搭乗員には戸惑い、反感も多かった。また343空時代にも坂井氏に反発するものは少なくなく、中でも戦闘301飛行隊の杉田庄一上飛曹はガダルカナルからの生還についても眉唾だと公言していたらしい。
 
【第八章 蒼空】
343空飛行長の志賀淑夫氏は軍の密命により、戦後占領軍によって万が一、天皇の身に何か起きた場合に備え、皇族を匿い皇統を護持するための任務についていた。この任務には343空の元隊員20名ほどがあたり、中心だった源田實から任務解除が伝えられたのは昭和56年だった。
 

神風になりそこなった男達 ロケットファイター秋水隊 [書籍]

神風になりそこなった男達―ロケットファイター秋水隊史

神風になりそこなった男達―ロケットファイター秋水隊史

  • 作者: 高田 幸雄
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 1992/05
  • メディア: 単行本
 
【写真】
  • プレーンズ・オブ・フェイムの展示機(カラー)
  • チノ・エア・ミュジアムの特ロ2号エンジン(カラー)
  • 戦後、木曽川の河原から掘り出された秋水の残骸(自衛隊岐阜基地、モノクロ)
  • 秋水隊員の集合写真(昭和19年9月13日撮影、空技廠屋上、モノクロ)
 
【第一章 希望に燃えて】
隊員に選ばれたのは第13期飛行科予備学生。昭和19年8月10日、大村海軍航空隊元山分遣隊の少尉16名に対して連絡があった。航空本部から送られてきた電文には「Me-163に充つ」とあるだけ。8月20日横須賀海軍航空隊に着任。先任の小野二郎大尉は元々二座水偵のパイロットで、その後二式水戦に転向、ガダルカナル方面でF4FとB17Eを1機ずつ撃墜したとある。
訓練は各種低圧タンクに入っての減圧の訓練が主だったようだ。緊急脱出の方法は、酸素マスクをはずしてから携帯ボンベを口にくわえ、パラシュートは開かずに6000mまで落下、その後手動で開くという指導。食事は豪華な「秋水食」だったらしいが、与えられた食物以外の摂取は禁止。使用する酸素マスクは大島少佐考案の腹帯式で、ボンベから一旦腹巻状の気嚢に入れられ、そこで体温で暖められてから吸入する。与圧面も試されたそうだが、視界も悪いのですぐに使用を止めた。
 
【第二章 エライモノとの付き合い】
昭和19年8月7日に横空・空技廠の合同研究会が開催され、横空の小暮寛中佐、小野大尉、整備担当の隈元機関大尉が出席。三菱からは服部譲次、河野文彦、高橋己治郎の各技師。翼型設計は空技廠科学部の越野長次郎技術中佐以下によって基礎データが作成され、これを元に三菱が機体設計を始めた。
特ロ二号の原型はワルターHWK-109-509A、燃料の甲液は過酸化水素90%水溶液、乙液は水化ヒドラジンと無水メタノール混合液に反応促進剤を加えたもの。 燃料系統図あり。スターターを始動すると、甲液が蒸気発生器に送られ触媒と反応して水蒸気と酸素を発生、これでタービンを回す。タービンは甲・乙液のポンプを回してこれらの圧送が開始される。スロットルを開くと甲・乙液は最終的には12本に分岐して各噴射弁から燃焼室に噴射、反応して推進力を発生する。各噴射弁の構造図もあり、甲液はスパイラル通路を通って約1mm圧の円錐状の幕として噴射、乙液はそれを取り囲むように0.3mmのスリットから円筒状に噴射される。筆者によるとこの円筒と円錐が適当な距離で真円を描くように交わらないと規定の推力が出ないそうだ。スロットルによる推力調整は各噴射弁から出る液量を調整するのではなく、使用する噴射弁の数を制御する。
主翼は木製単桁式、外板は合板の上に羽布張りでねじり下げは6度。エレボンは外翼、内側に修正舵、フラップはスプリット式だが翼後縁ではなく、中央付近にある。内蔵されているのは乙液のタンクで536ℓ。胴体はアルミ合金製モノコック構造で操縦席の後に1159ℓの甲液タンク、垂直尾翼の方向安定版は木製だが方向舵は薄鋼板張。主翼付け根部に17試30mm機銃(装弾数50発)、無線機は三式空二号。甲液は有機物と激しく反応することから飛行服も特別なもので、絹に特殊加工した銀色のものだった。(植物性より動物性の方がよい、色にも意味があるが著者は失念)
 
【第三章 幻を追い求めて】
10月初旬、部隊は「横須賀海軍航空隊百里原派遣隊」となり、百里原へ移動。使用した九三中練に書く識別記号は横空と同じヨを用いたが、本体と区別するため文字の上部にオレンジイエローの横線が入っている。この頃、部隊名として「秋水一閃、驕敵を切る」という言葉から秋水隊と名乗るようになった。
訓練では無線機の使用され、そこそこ使えたようだ。三式空一号のスペックは出力15W、到達距離50浬となっている。
エピソードとして高高度飛行(6000m以上を20分以上)を行うと特別手当があったとある。カタパルト射出も同様でこちらは6円だったことから、ポン六と呼ばれていた。
 
【第四章 余計な話】
 
【第五章 光明】
12月25日、空技廠で設計していた全木製の軽滑空機が百里原に到着、26日に試験飛行が行われた。曳航機は天山11型。パイロットは犬塚大尉。この軽滑空機が秋草だが、隊内ではほとんど使うことはなかったらしい。
重滑空機が到着したのは翌20年の1月6日。こちらは三菱が製作し、実機から動力や兵装を取り除いたもので重量も1トン以上。初飛行は1月8日で今度は天山12型が曳航。犬塚大尉は垂直旋回、上昇反転、宙返りも行い10分ほど飛行した。ただし、訓練用としては軽滑空機で十分との判断で2機しか製作されなかった。
 
【第六章 焦燥】
部隊は昭和20年2月5日付けで第312海軍航空隊として独立。 312空の司令は柴田武雄大佐、副長兼飛行長は山下政雄少佐、飛行隊長は山県頼雄少佐。
軽滑空機は20年初頭から量産される予定だったが、6月になっても2機のまま。著者の感想では非常に操縦性はよかったとのこと。
 
【第七章 落日】
7月5日、17試30mmの試射が行われた。初速770m/s、発射速度530発/分。6日には特ロ二号の地上試験が実施された。更に翌7日の16時55分が秋水の初飛行であり、その瞬間の写真もあり。その後のエンジン停止と着陸事故は知られているとおり。残骸になった写真も掲載されている。犬塚大尉が最短の安全な着陸経路を取らなかった理由は不明。
 
【第八章 踏んだり蹴ったり】
秋水の攻撃方法として、30mm機銃以外に3号爆弾2発を搭載することも検討されていた。また機種に600kgの爆薬を搭載して敵編隊の真ん中でボタンにより自爆するという作戦もあった。
 
【第九章 何故】
 
【想い出集】
伊藤弘一、岡野勝敏、菅原禮、堀谷清衛、松本俊三郎、松本豊次、三屋嘉夫、三角秀敏の各氏。
 
【参考文献】
ロケット・ファイター (文庫版航空戦史シリーズ (50))

ロケット・ファイター (文庫版航空戦史シリーズ (50))

  • 作者: M・ツィーグラー
  • 出版社/メーカー: 朝日ソノラマ
  • 発売日: 1984/12
  • メディア: 文庫
海軍戦闘機隊史

海軍戦闘機隊史

  • 作者: 零戦搭乗員会
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 1987/01
  • メディア: ハードカバー
 

古賀一飛曹の零戦 ジム・リアドン [書籍]

古賀一飛曹の零戦―太平洋戦争の流れを変えた一機

古賀一飛曹の零戦―太平洋戦争の流れを変えた一機

  • 作者: ジム リアドン
  • 出版社/メーカー: エイ出版社
  • 発売日: 1993/06
  • メディア: 単行本
 
【プロローグ】
 
【第一章 空気力学上の不可能】
 クレアー・シェンノートが零戦のレポートを送ったのが1940年の秋。サッチ少佐がサンディエゴでそのレポートを目にしたのが1941年秋とあるが、その直後にこの新型機に対抗するための方法、サッチ・ウィーブを考えたのが1941年秋と書いてあるから矛盾している。太平洋戦争開始前には考案されていたのは間違いなさそうだから、1941年秋が間違いか。
 
【第二章 零戦の設計過程】
 零戦の旋回性能として、時速370km/hで6秒以内に180度旋回が出来るとあり。その際の速度のロスは64km/h、前進距離は370m。
奥宮正武氏の記述あり。1986年10月に「戦時中のアラスカ」という試写会に出るためアンカレッジにを訪問したらしい。77歳、身長約150cm、体重43kgというから、当時としても小柄な人物だったようだ。
 
【第三章 息の長い零戦】
 
【第四章 真珠湾での零戦】
真珠湾で撃墜した零戦の残骸も調査はされたらしいが、装甲板、防漏式燃料タンクがないこと、エンジンの出力が推定された程度だったようだ。
真珠湾攻撃以降では、1942年2月19日にオーストラリアのダーウィン急襲時にメルヴィル島に墜落したものが調査対象になったらしい。これは豊島肇氏が搭乗していたものとある。その次は1942年4月28日にニューギニア近くのロドニー岬で墜落した機体で、発見時は修復可能なレベルだったらしいが回収時に主翼桁を切断してしまったらしい。1942年の終わりに中国でも21型が捕獲され、フライングタイガースから米陸軍へ、そしてヒマラヤを越えてインド経由で1943年にライト飛行場の陸軍研究所に届けられた。
 
【第五章 第一次ダッチハーバー襲撃】
 
【第六章 ミッドウェイ海戦での零戦】
ミッドウェイでTBDを護衛していたワイルドキャットが零戦を撃墜しているが、これがサッチ・ウィーブが使われた最初だったとある。
 
【第七章 嵐の中の日本艦隊を追って】
 
【第八章 失われた古賀の零戦】
 1942年6月4日、午後5時55分から6時55分の間に日本の部隊がダッチ・ハーバーを攻撃。これに参加していたのが遠藤費曹長、鹿田二男飛曹、古賀忠義一飛曹の小隊。戦後の鹿田飛曹の証言によると、小隊はダッチハーバーに投錨中の2機のPBYに対して降下攻撃をした際に、地上からの機銃掃射により古賀機が被弾したとのことだが、米軍側には6月4日にPBYが機銃掃射を受けた記録はない。また回想によると、古賀機はエンジン部からオイルが機体の尾部まで筋を引いていたとのこと。この内容は後日の古賀機に関する米軍側の記録、つまりオイルパイプの破損と一致する。ちなみに50口径弾により破断らしい。
古賀機を含む3機は、不時着時の回収ポイントであるダッチ・ハーバーの東40kmのアクタン島に向かうが、不時着に失敗した。搭乗員を回収するはずの潜水艦は一応海岸を捜索したらしいが、発見できなかったようだ。その後水上機母艦「ウィリアムソン」に発見され、さらに2、3日後PBYに爆弾と爆雷攻撃を受けたが、日本に帰り着いている。
 
【第九章 古賀の零戦の発見と修理】
 古賀機は約1ヵ月後の7月9日、パトロール中のPBYが上空から発見。後日、現場まで船で行って確認すると、脚柱はもぎ取られ、フラップ、増槽タンクは壊れ、翼端、垂直安定版、方向舵後縁も損傷していた。その他の攻撃による損傷は12.7mm機銃により上下から打ち込まれた弾痕が複数あった。つまり、地上からの機銃だけではなかったらしい。
回収は足場が悪いため何度か繰り返し行われ、最終的には3次隊が7月15日に引き揚げた。ダッチ・ハーバーでの調査では、ラジオ・コンパスがフェアチャイルド航空カメラ会社製だったことに驚いたとある。またラジオからはずしたジェネレータがエクリプス社製でこれも米国製だった。エンジンはシリンダーのいくつかに錆が出ていたが、ほぼ問題ない状態。
この機体がサインディエゴのノース・アイランド海軍航空基地に到着したのは8月12日。修理は目隠し、見張りつきの中でしかも24時間体勢で行われ、9月25日までに飛行可能な状態になっていた。
 
【第十章 再び飛んだ古賀の零戦】
 エディ・サンダース少佐が復元零戦のテストを実施。証言としては以下の様。低速では優れた運動性を発揮し、超低速での旋回半径の小ささと補助翼の効きはすばらしい。しかし370km/h以上では補助翼が聞かなくなり、旋回性能が落ち、操縦桿の操作に力を要する。旋回は右より左がはるかに楽で、キャブレターがフロート式のためマイナスGがかかるとエンジンが停止する。少佐の印象では復元の程度は98%の修復といったところらしいが、2%が何かは不明。シリアルはオリジナルと同じ4593のままとされたが、塗装は海軍式に塗り替えられた。他にテストしたのはフレッド・トラップネル准将で、二人でF4U、F4Fでの対戦も行った。
その後、メルヴィル・ホフマン大尉が更にテストを行い、アメリカの各種戦闘機との比較を行っている。その他ではウィリアム・N・レナード少将が1944年9月と10月にこの機体に乗った、彼はその後グアムで捕獲した52型も飛ばしている。レナード氏の零戦に対する評価として、「空気力学的設計は何一つ大量生産の犠牲になったところはなかった」というコメントがあるが、逆に言えばやはり量産はあまり考慮されていなかったということか。また、「全ての外板、鋲、正確に整えられたフェアリング、エンジンカウリング、点検扉、キャノピー脚扉などは正確にぴったりと合うように仕上げられていた」とあるが、これも逆に言えば米軍機はそこまで正確に作られていなかったということ?F4F-3、4との比較でR-1830の冷却のためにスピナーをはずさなければならなかったのに対し、零戦はスピナーつきで「驚くほど小さい吸入口にも関わらず」十分冷却されていた、というコメントがある。F4Fがスピナーを付けなかった理由の一つと言っていいのかな。また、少なくとも氏が搭乗したときにはAMCは故障していたようだ。52型との比較では、52型だけに排気温度計があったとあり。テールフックについて米軍機では零戦のような仕組みは「誤作動して制動不能着艦の原因になるのではという心配からこの方法を諦めたと私は聞いている」ってあるけど、何が心配なのかよくわからない。
その後サンディエゴでは複数のパイロットが模擬空中戦を行ったり、自ら操縦した。
 
【第十一章 古賀の零戦の重要性】
「古賀の零戦のおかげで飛行戦術、新鋭機の設計、そして第二次世界大戦後半に使われた航空兵器の開発など数多くの改良を可能にしたのである」というジェームズ・S・ラッセル退役海軍大将の言葉が載せられているが、具体的にどの兵器開発に役に立ったかの記述はなし。やはりその後に述べれているように、零戦の性能特性を十分に把握し、戦う備えが出来たというのが一番のポイントだろう。
 
【エピローグ】
問題の4593号機は1945年2月に訓練飛行のための地上滑走中、ヘルダイバーに衝突され尾部からコクピットにかけて破壊された。残骸は格納庫内に残されていたが、そこから吸気圧力計、速度計などをビル・レナード氏が回収し、1986年にワシントン海軍工廠内の海軍博物館に寄贈した。製造銘版は今はスミソニアンにあるらしい(通りすがりさんより指摘あり。現在は個人が所有しているとのこと)。 銘版の写真もあり、製造所:三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所、名称:零式一号艦上戦闘機二型、形式:A6M2、発動機:中島NKI  馬力(?)、製造番号:第4593号、自重:1715.0t、搭載量:650.3t、全備重量:2365.3t、完成年月日:2-2-19、検印が読み取れる。もちろん実際は全て旧漢字の表記。
他の博物館に所蔵されている零戦についての記述もある。プレーンズ・オブ・フェイムの零戦はほぼオリジナルかと思っていたけど、主翼桁は新規に製作されたものだったんだな。
 
古賀氏の遺体はアクタンで零戦が回収された際、その近くに埋葬された。著者はその場所まで突き止めたが、既に遺骨はなく、どうも戦後のドサクサ時に他の遺骨とともに日本に帰ったらしい。
 
【付録】
4595号の飛行性能のデータ。
最大速度(km/h)/高度(m)の順。434/0, 462/1500, 491/3000, 525/4800, 517/6000, 507/7500, 492/9000。
上昇率(m/分)/高度(m)の順。825/0, 714/4500, 543/6000, 255/9000。
実用上昇限度11550m。
1942年11月4日に海軍航空情報局が航空技術情報第3号「性能と特徴の試験~日本の戦闘機~」を発行。内容は零戦の説明、性能、海軍戦闘機との比較。12月に陸軍航空隊が情報論文No.58を発表。内容は米軍機と零戦を一緒に飛行させ、1500m刻みで速度や上昇力、運動性などを比較したもの。上昇力の検証では余剰ズーミングの可能性をなくすためあらゆる努力がなされた、とあり。
 
  • P-38Fとの比較
先に足が離れたのは零戦。P-38が離陸したときには高度100mに達していた。1500mまでは5秒、3000mまでは4秒早く到達。4500mまではほぼ同じ。4500から6000ではP-38が途中で追い越し、6000m以上では低速での旋回性能以外はP-38が上。
 
P-39D-1との比較
高度0から1100mまでの上昇ではP-39が先に離陸、1500mに到達したときに零戦は1200mだった。1500mでの370km/hからの加速競争ではP-39が圧倒。1500から3000mへの上昇ではP-39が6秒早く、350km/hからの加速性能も同じくP-39の圧勝。3000から4500では3700mまでは同じ上昇率だったが、それ以上は零戦の方が上。4500での304km/hからの加速性能はP-39の方がやや勝る。4500から6000では零戦が逆転し、320km/hからの加速も零戦の方が早いが、30秒後にP-39が追い越した。 6000から7500mへの比較はP-39の燃料不足で中止。海面上から7500mへの上昇テストでは4440mまではP-39が早いが、7500mに達するには零戦より5分多く要する。7500mでの290km/hからの加速テストでは零戦の3機分ほどのリードが1分半ほど続き、追いつかれてから機体1つ分P-39が先行するのに更に30秒を要した。
 
P-40Fとの比較
P-40のエンジン不調のため中止。
 
P-51との比較
離陸から1500mへの上昇では零戦が6秒ほど先行。1500mでの400km/hからの加速ではP-51が一瞬で零戦を引き離す。1500から3000、3000から4500の上昇でも同じ。3000mでの400km/hからの加速、4500mでの385km/hからの加速もやはりP-51の圧勝。4500m以上ではP-51のエンジンが不調になったため、これ以上の高度でのテストは中止。レポートには「新型のマスタング」としか記述がないらしく、方は不明だが恐らくアリソンだと推測。
 
F4F-4との比較
300m以上の全ての高度で、速度、上昇力、航続力、実用上昇限度で零戦が上回る。海面高度での最高速度はほぼ同じ。
 
F4U-1との比較
あらゆる高度での水平速度、急降下速度および6000m以上での上昇力はF4Uが上。しかし1500mから5700mまでの上昇力では、零戦が上回る場面もあり。
 
結論
零戦は翼面荷重が小さいため、あらゆる米軍機と比較して機動力が勝る。対抗するために次のことを知っておくべきである。
  1. 高速では零戦の旋回性能は鈍い
  2. マイナスGがかかった状態では零戦のエンジンは止まる
零戦のエンジン性能は海面上から4800mまで吸気圧力が最大のまま維持されており、ターボ・スーパー・チャージャーが装備されていない現用エンジンに勝る。
 
勧告
  1. 零戦との格闘戦は決してやってはならない
  2. 時速480km/h以下の速度では、零戦のすぐ背後についていない限り戦わぬこと
  3. 低速で上昇しているとき、零戦を追わぬこと。わが軍の戦闘機が失速してしまうような急上昇角でも、零戦は最適機動速力に達している。この時点で零戦は完全に宙返りして背後に回り後方攻撃可能の位置に付くことが出来る
  4. 零戦に対抗する戦闘機は、出来るだけ軽量にするべきである。戦闘に絶対必要という装備以外は取り除くべきである。
攻撃と防御戦術
零戦は補助翼が大きいため、480km/hまでは高い機動性を発揮するが、480km/h以上では180度旋回することが実際には不可能。旋回性能も右から左の方が早い。顕著な特徴はズーム上昇率が大きいことである。このズームはほとんど垂直に近いもので、開始速度にもよるが450mから600mまで維持することが出来る。
 

最後の戦闘機 紫電改―起死回生に賭けた男たちの戦い [書籍]

最後の戦闘機 紫電改―起死回生に賭けた男たちの戦い

最後の戦闘機 紫電改―起死回生に賭けた男たちの戦い

  • 作者: 碇 義朗
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 1994/01
  • メディア: 単行本
 
【プロローグ―初陣の日】
昭和20年2月26、27日に関東上空で行われた空戦では、日本側61機の損失に対し、米側は49機とそれぞれが報告している。この戦闘で横空の第2小隊長 羽切少尉はF6F1機を撃墜、第3小隊長の武藤飛曹長は同じくF6Fを2機撃墜し、横空全体では撃墜5、未帰還機1としている。
 
【第一章 大いなる助走】
川西は九四式水偵を境にそれまで設計の中心だった関口英二氏、戸川不二男氏らが辞め、九試大艇が始まるころに菊川静男氏らが主力になるようになった。
強風の設計を行った中心メンバーは菊原氏以外では、小原正三、馬場敏治、徳田晃一、大沼康二、井上博之の各氏。強風の設計では空技廠の「星型発動機の抵抗少なき装備法」という研究報告が参考にされた。たぶん雷電と同じ元ネタかな。翼型は菊原氏の親友である東京帝大航空研究所の谷一郎教授に依頼して開発したかのLB翼。フィレットの形状決定では実大のテストを行う風洞が無かったため、ある程度適当に決めてしまったらしい。しかし、ルートストールが発生し、この乱流が方向舵に振動を与えた。この対策として大きなものに変更したところ、今度はパイロットの足がかりがなくなることになったので、さらに外側に膨らんだものにした。不恰好なフィレットはこのため。強風の最高速度は高度4000mでの492km/h(266ノット)。ちなみに7.7mm機銃は対戦闘機戦のものではなく、上陸作戦時の地上軍に対する攻撃用。自動空戦フラップを装備する前の模擬空戦では二式水戦にかなわず、雷電と互角だったとある。強風がすごいのか、雷電がだめなのか。自動空戦フラップの試作品が完成したのは18年の5月。操縦系統の腕比変更装置は最初は3舵につけたが、テストの結果方向舵は不要となったので、昇降舵と補助翼のみに採用されている。
 強風改造の陸上戦闘機を開発する話が出たのは開戦直後。17年の正月休み明けに航空本部技術部長の多田力三少将に直談判し、了解を得る。すぐに社内名称X-1で開発がスタート。問題となった脚はプロペラと地面のクリアランスを最低でも20cmとるために取り付け部の回転中心から車輪中心まで1751.5mmが必要とされ、これを主翼に格納するためには1366.5mmに縮める必要があった。その差は385mm。
キ-43、A6M5、キ-84、紫電、F6Fの主要諸元の比較表があるが、この中でキ‐84との比較が興味深い。全幅は1m大きく、翼面積も10%大きい。全備重量も10%近く重いので翼面荷重は同じくらいのはず。エンジンが同じ誉ということからすれば、運動性は似たようなものでも、最高速、上昇力は疾風が上だろうな。まぁ、どこまでこの数値が正確かわからないけど。
主翼のねじり下げは零戦がサインカーブなのに対し、フラップ及びエルロンの蝶番中心がそれぞれ直線で、フラップの外側で上反角が変わっているように見える付け方、ってあるけどイメージしにくい。 桁はモノスパーで胴体に対し直角で、零戦が片翼の途中でつないであるのに対し、川西は専用の工作機械で削りだすことによって片側は完全な一本としている。この機械は川西が自ら開発したもので桁フライスと呼ばれ36台作られた。戦後奇跡的に残った1台はPS-1やUS-1の桁を作るのに使われた。
機銃の発射時の反動の話が少しあり。20mmや30mmの発射時の反動は翼全体に分散させられるようになっていれば、それほど大きな影響はなく、飛行中の風圧によってかかる力の方がはるかに大きいとのこと。
 
【第二章 難問への挑戦】
紫電の初飛行は昭和17年12月31日。最初は川西の乙訓飛行士が乗る予定だったのを、強引に帆足工大尉が乗り込み、地上滑走だけの約束を破ってそのまま飛び上がった。帆足大尉は半年後、雷電のテスト飛行中に事故で亡くなる。その雷電の初飛行は17年3月20日、紫電の母体となった強風は一ヶ月半後の5月6日なのでほぼ同期の機体と言っていいらしい。
強風の審査報告で自動空戦フラップの必要性がクローズアップされてから、強度試験場係長の清水三郎氏が中心になって開発が始まり、3ヶ月後の18年5月に試作品ができた。その後量産向けに改良が続き、最終的には片手に乗るくらいのコンパクトなものになった。速度により上下する水銀をフラップの開度の制御に使っているのは有名だが、その精度はフラップの0°から30°で水銀の上下する範囲は最大7mmくらいまでとある。動作原理図も掲載されている。
烈風に搭載されたものは同じ清水氏が発案したものだが、海軍で試作したもので紫電に搭載されたものとは異なるらしい。
また紫雲から続いていた親子式フラップは、子フラップの効果があまり見られなかったので紫電以後廃止された。
 
【第三章 俊翼飛ぶ】
紫電の低翼化の検討が始まったのは、紫電の初飛行の2ヵ月後とあるので、18年の2月下旬頃か。紫電、紫電改の胴体断面の図もあり形状の違いがよく分かる。低翼化により2段伸縮式の脚も短く、単純なものに変更されたので脚関係だけで100kgも重量が減ったそうな。脚の長さは1.752mから1.424mへ、間隔も4.450mから3.855mになった。
紫電改の完成は18年12月末、初飛行は川西の岡安飛行士により1月1日に行われた。海軍側のテストは志賀淑雄少佐による。急降下テストが行われたのは19年3月はじめ。段階的に行って計器速度で430ノット(796km/h)まで確認された。
配備が始まってから、川西の整備班にパイロットは紫電は零戦より弾丸の命中率がよいと語ったらしい。11型の7.7mmを廃止してガンポッドを吊り下げたのが11型甲。ただし7.7mmの機銃口そのまま残された。11型甲は鳴尾工場の251号機から550号機まで、姫路工場では51号から250号機まで作られた。11型乙はベルト給弾式になって4挺とも翼内装備となった。
機銃の取り付け角度調整はそれまではっきりした基準が無かったのを、17年秋に横空戦闘機隊隊長の花本清澄少佐の提案で最適角度を求める事件が行われた。その結果は上下左右ともに機体の軸線前方200mで交差するようにするのがベストと結論付けられた。九九式一号20mm機銃は500m先で1.5mの弾道低下があったそうだが、二号銃はその半分だった。
志賀少佐の提案で機体に13mm機銃をつけた試作機も作られた。ただし計画では2挺だったが、実際付けられたのは1挺のみ。これは31型、N1K3-Jと呼ばれたとある。
 
【第四章 戦火の中で】
紫電改用に納入される誉は呉十一空廠でも製造されたらしいが、中島荻窪製に比べて品質が劣ったらしい。
学徒動員された女学生の手記もいくつか掲載されているが、皆「P1という戦闘機」、「H8という輸送機」、「P1Y2Sという二人乗りの特攻機」というように記号で呼んでいたらしい。
 
【第五章 終焉のとき】
烈風を試乗した志賀少佐の印象は、重い手ごたえの紫電改に対して、零戦に似た滑らかな操縦感覚というもの。
志賀少佐が病気で入院した後任は山本重久大尉で紫電改のテストを続けた。この山本大尉に烈風のテストをしていた小福田少佐が次期艦戦に紫電改が使えないか相談し、ここから艦戦化の話が正式なものに繋がったようだ。着艦フックの追加、それに伴う尾部胴体の補強、フラップ角度の増加を行い、N1K3-Aとなる。ちなみに誉23型に換装したのはN1K4-A。信濃への着艦テストは19年11月に行われた。
343空では通信システムも重視されたが、当初はやはり機上無線では50km程度までしか聞こえなかった。それを横須賀航空隊の塚本大尉がシールドを工夫し、雑音を減らす技術指導した結果、10倍の距離まで使えるようなったとある。
301飛行隊の訓練中に空中分解事故が発生。菊原氏らが事故調査に当たったが、原因不明のまま終戦を迎えた。著者は対気真速度800km/hを超えたために、部分的に音速に達し、衝撃波が発生したのではと推測している。
東大航空研究所の小川太一郎、谷一郎博士が計画した、パルスジェットを動力とした特攻機設計のため、特攻機設計のため、空技廠へ菱田一郎、金崎正、多賀拓平、小原正三ら7名が横須賀へ赴任。
終戦後、大村基地から紫電改を横須賀へ志賀氏が空輸したが、途中巡航飛行するF6Fが追いつけなかったとある。
また、戦闘402、403の紫電も姫路から横須賀へ3機の紫電を空輸したそうだ。
 
【エピローグ】
著者は1969年に空軍博物館とウイローグローブ海軍航空基地に展示されている紫電改を見たらしいが、紫電の消息は分からなかったらしい。日本では愛媛県沖から引き揚げられた紫電改があるが、これは展示にあたって新明和の工場で修復された。また、宮崎県にも紫電改に搭載されていたエンジンが海中から引き揚げられたとある。この誉はいまどこ?

メッセージを送る

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。