So-net無料ブログ作成

局地戦闘機「雷電」 渡辺洋二 [書籍]

局地戦闘機「雷電」

局地戦闘機「雷電」

  • 作者: 渡辺 洋二
  • 出版社/メーカー: 朝日ソノラマ
  • 発売日: 1998/04
  • メディア: 単行本
 
個々の戦史もしくは戦果の記録や、詳細な技術が分かるわけではないが、関係者へのインタビュー、綿密な資料の調査、整理された文章構成で雷電がどのような経緯で開発され、どのように活躍したかの概要がよくわかる。写真も数は多くないが、鮮明で内容も興味深いものが多い。
 
【局地戦闘機の誕生】
局地用陸上戦闘機としては、ドイツから輸入したハインケルHe112B-0とHe112V5が最初に検討された。He112B-0は昭和13年の5月頃に到着したが、予定30機のところ12機で打ち切り。採用にならなかったこれらの機材はどう扱われたのか。スクラップ?
 
昭和13年秋、第十二航空隊から艦上機と陸上戦闘機に対する要求性能の所見書が出される。小福田租大尉はこの十二空付だった。陸上機の所見には敵攻撃機(爆撃機)を迎え撃つ局地防御機としてのコメントで、航続力と操縦性を多少犠牲にしても速度を最重視する、としているらしい。また機銃については7.7mmは威力不足だが、20mmは初速が小なので「百害ありて一利なし」とし、10~13mmが限度としている。
またほぼ同時期の13年9月、横須賀航空隊から局地戦闘機の性能標準案が軍令部宛に出された。これを受けて14年2月に軍令部で武装が異なる3案の性能標準がまとめられる。
 
堀越技師が海軍航空本部技術部の巌谷英一造兵少佐に招かれたのは14年の9月12日。しかし十四試局戦の設計計画要求書が三菱に届いたのは15年4月22日。
要求仕様の内容は次の通り
 
  1. 目的:敵攻撃機を阻止撃破するに適する局地戦闘機を得るにあり
  2. 形式:単発単葉型
  3. 主要寸度:特に制限を設けざるも、なるべく小型なこと
  4. 発動機およびプロペラ:昭和15年9月末日までに審査合格の空冷発動機/恒速プロペラ
  5. 搭乗員:1名
  6. 性能(特記せざるものは正規状態とす:性能要求順序を最大速度、上昇力、空戦性能、航続力とす
    1.  
      • 最高速度 高度6,000mにおいて325ノット(602km/h)以上。340ノット(630km/h)を目標とす
      • 上昇力 6,000mまで5分30秒以内。実用上昇限度11,000m以上
      • 航続力 正規状態、高度6,000m、最高速にて0.7時間以上。過荷重状態、高度6,000m、発動機公称馬力の40%出力にて4.5時間以上
      • 離昇能力 降着速度70ノット(130km/h)以下。降着滑走距離600m以下、なるべく小なること
      • 空戦性能 旋回ならびに切り返し容易にして、一般の特殊飛行可能なること
  7. 本機の強度類別はIX類とす
  8. 兵装 射撃:7.7mm機銃(弾数550発)2挺、20mm機銃(弾数60発)2挺。爆撃:30kg爆弾2個
  9. 艤装 無線電話機:96式空一号無線電話機。防弾:操縦員後方に8mm厚防弾鋼板。酸素装置、計器などは十二試艦戦に準じる
三菱の設計チームは、計算分担:曽根技師、櫛部四郎技師、小林貞夫技師、構造分担:曽根技師、吉川義男技師、土井貞夫技師、動力艤装分担:井上伝一郎技師、田中正太郎技師、藤原喜一郎技師、兵装艤装分担:畠中福泉技師、大橋与一技師、田中英雄技師、降着装置分担:加藤定彦技師、森武義技師。
 
昭和15年2月、堀越技師は翼面荷重135~140kg/㎡、翼面積19㎡と言う条件で、離昇1430馬力の十三試ヘ号改と離昇1200馬力の十三試ホ号で試算したところ、前者が最大速度583km/hだが後者は600km/hだったので、堀越技師はヘ号採用を考えた。正面面積は考慮されてはいたようだが、ラジエータの影響をどの程度見込んでいたか不明。ちなみにこの結果をもって、航空技術廠和田操少将らにも説明に行ったが4月の正式要求書では空冷エンジンが指定された。
 
1/8の模型を使った風洞実験では、十二試艦戦の抵抗係数0.00234に対し、0.00204となった。プロペラ後流を考えなければアプローチは正しかったと言うことか。
 
内翼は層流翼だが、これは藤野勉技師の数式に基づいて作られたとのこと。LB翼の発表が15年6月らしいから、同時期に同じような研究が三菱でされていたのか。
 
第1次木型審査は15年の12月26日に行われ、空技廠実験部の小福田大尉と横須賀航空隊の下川万兵衛大尉が出席。小福田大尉は一応視界改善を促したが、結局ははっきりとした改善要求を出せず、後の回想でもその点について後悔している。
 
昭和17年2月2日に空技廠で性能研究会が催され、推算された最大速度が要求値に達しないことから、プロペラ、銃身出口形状、単排気管の採用を検討することになった。単排気管はJ2M2で採用されるが、戦闘機では日本初になると書かれている。と言うことは戦闘機以外で先例があったということ?
 
1号機が完成したのは2月28日。実測重量は計画から+86kgの2191kg。
 
【苦難への道のり】
 初飛行は17年3月20日。VDMプロペラが壊れたので、一式陸攻のハブにY20のブレードを組み合わせたペラを使った。こんな組み合わせでも使えるんだな。
 
高度6,000mで574km/hの最大速度は計画値より低く、上昇力も計画値に届いていない。エンジンの出力が疑われたがここでは検証されていない模様。 エンジンは火星10型シリーズとして制式化され、雷電用は13型(MK4C)となった。これに水・メタノール噴射、燃料噴射装置を付けたのが20型シリーズで雷電用は離昇1850馬力の23型(MK4R)。
 
プロペラも改良され、電気式のVDMを4翅にして、ハミルトンの油圧式変更機構をVDMに取り付ける折衷案を採用とある。
エンジン、プロペラ、冷却ファンの変更で72kg重量が増加したので、重心位置調整のためエンジン取り付け面を10cm後退させ、カウリングも20.5cm短くなった。
 
J2M2の制式採用時期は諸説あるらしいが、複数の条件を考えると昭和18年後半頃らしい。
 
J2M2で問題になった振動問題は2種類あり、振動数の低い「ゴツゴツ」はクランク軸とプロペラの回転から生じる唸り現象が原因で、対策としてプロペラ減速比を0.54から0.5に変更し、プロペラの不平衡重錘の位相を選択した、とあるが後半は何のことやらよくわからん。
もう一つの「ビービー」振動は、同じくエンジンとプロペラの共振問題がおきていた銀河の対策を参考にして、効率低下を覚悟してプロペラを厚くして剛性を高めることで回避。これが行われたのは18年10月らしいから、やはりこの直後に制式採用だったのか。敗戦直前にエンジンの前列後列の主接合棒(コンロッド?)の位相が180度だったのを隣り合わせにすれば回避できることが分かったがとき既に遅し。J2M2の最大速度は高度450mで、596km/hが実測値。
 
J2M1のころ、陸軍、海軍の互乗研究会が行われ、荒蒔義次少佐が乗っている。印象としては視界はよくないが、ずんぐりした機体の割に舵の釣り合いが取れていて、乗りにくい飛行機ではなく、全体として「悪くない」という評価。二式単戦との比較では速度と旋回はJ2が優り、上昇力は二式単戦一型が上で、着陸もJ2M1の方が楽と言っている。
 
横空の飛行歴8年の羽切飛曹長の感想では、零戦なら6~7割で乗りこなせるところ、J2は100%の力を使う必要があったとのこと。後の紫電と比べても難しかったらしい。
 
【実戦部隊へ】
 J2M3が完成したのは18年10月。7.7mmが廃止され、九九式二号四型20mm+九九式一号四型20mmとなった。弾数はそれぞれ210発と190発のベルト給弾式。両方とも二号にならなかったのは生産が追いつかないためと、翼内スペースが足りなかったため。二号は一号より全長が10cm長く、弾丸自体も3cm長い。2割以上体積が多くなるとあるが、弾丸スペースを入れてのことか。
胴体内燃料タンクも外張り式の防弾タンクになっていて、当初は雷電改と呼ばれたらしいが結局は二一型となる。
 
昭和18年、射撃訓練中の山内三千人飛曹のJ2M2が空中分解する。機体は海中に没してしまったが、エンジン取り付け用クランク・ボックスの耳金がその前の落下着陸時にヒビを生じ、これが飛行中に切損したものと推測され、強化された。
 
戦闘601のB-24の攻撃法として考案された直上方攻撃では、弾道が下がり気味になるので20mm機銃をやや上向きに取り付けることを考案。この結果が良好だったので、11型の途中から4度上向きになるように変更された。
 
【高まる期待】
昭和19年に入って302空でも訓練が始まったが、零戦とは異質な特性であることもあって事故が頻発した。しかし、エンジン自体のトラブル、特に油圧系統の故障も多かった。302空整備主任吉野実大尉の見解では、「火星23型はいいエンジン」であり、トラブルが多かったのは「機体の構造とマッチしていなかったため」としている。具体的にどのようにマッチしていなかったかの説明はない。
飛行中は計器から目を離せず、常に油温計、筒温計に気をつけ、筒温が下がらないようにカウルフラップ操作が必要だった。しかし、それさえクリアすればトラブルに会わなかった人もいるらしい。
302空ではかの小園司令の肝いりで斜め銃装備の雷電も6、7機作られた。月光のように背中に背負うのではなく、胴体左側から翼端方向へ30度、上向きに10度の角度で、コクピット下の足掛けのそばから銃口を出した。
 
初空戦は台南空の青木中尉がP-38と行ったものになるようだ。
 
整備に携わった林少尉の弁では、雷電の整備はエンジンそのものよりも機体やプロペラを完調に維持するのが困難だったとある。これも具体的な症状の話しは無し。
 
横空から軍需賞に出された雷電と紫電の比較意見書の概要がある。

 

  • 最大速度:高度6000mにおいて雷電21型の330ノット(611km/h)に対し、1号局戦改は335ノット(620km/h)
  • 上昇力:雷電21型の高度6,000mまで5分50秒に対し、1号局戦改は6分
  • 対戦闘機戦:雷電21型は零戦に勝ち目なし。1号局戦改に対しても同様と思われる。ロッキードP-38、ベルP-39に対する格闘戦はやや有利だが、グラマンF6Fには相当の苦戦になるだろう。1号局戦改は速力と上昇力を利用すれば、零戦と五分五分か、それに近い程度に戦える。
  • 対重爆戦:雷電21型は火力、速力、上昇力、防弾のいずれも零戦に勝るが、航続力、視界、整備性(零戦の6割)の点では劣る。したがって零戦との併用が望ましい。1号局戦改は火力、防弾は零戦よりずっと優秀だが、整備性はやや劣る。

上昇力の6,000mまで5分50秒は三菱の測定で、海軍測定値は6分40秒となっている。ちなみに零戦52型は7分1秒。紫電11型は7分50秒、紫電21型は7分22秒。

航空本部は昭和19年1月に三菱に対してターボ過給機装備の試作命令を内示。21型をベースに機種を200mm延長し、エンジン後方のオイルタンクと機種下面のオイルクーラーをカウリング前縁に移動。またカウリングの開口面積を広げ、強制冷却ファンの直径を75cmから85cmに拡大。風防の後ろに20mm機銃を2挺追加。全備重量は500kg増しになったので、降着装置も強化したが、引き起こし時の負荷倍数は7から6に低下。これがJ2M4、雷電32型となる。

空技廠製のターボ付きは三菱製の前に完成、初飛行も空技廠製の方が早い。

火星23型の1段2速過給機の直径を大きくし、全開高度をアップさせたのが26型甲。これを装備して風防の高さを50mm、幅を80mm増やし、胴体上部をそぎ落としたのが33型。この改造で風防が開けにくくなったので、ハンドルを回して開閉するようになった。9月28日の小福田少佐による試験飛行では331.8ノット(614.5km/h)(高度6,585m)、高度8,000mまで9分45秒の値を残している。

【B-29との対決】
戦後英軍に捕獲されてテストされたのはシンガポールに残された元381空の21型。2機編隊の飛行中の写真も掲載されていて、ATAIU◎SEAがはっきり読み取れる。
 
厚木基地第302空の整備分隊長大沢徳吾郎中尉によると、火星は手を焼くほどのひどさではないが、まだ改善の余地があったとのこと。
 
寺村純郎中尉と山川光保一飛曹はそれぞれ、十分な機動力を保てるのはいいところ8,000mまでで、高高度ではむしろ零戦の方がよかった、と証言している。
 
B-29に対する初戦果は昭和19年の12月3日の邀撃戦で、中村佳雄上飛曹、杉滝巧上飛曹、坪井庸三中尉が記録。このときの杉滝上飛曹の搭乗機には2式30mmが付いていた。
 
昭和19年以降に作られた雷電は付け根が幅広のプロペラになり、「ようやく10,000mに上がれるようになった」(村上一飛曹)
 
横空審査部で志賀淑雄少佐の後任として紫電改を担当した山本重久大尉からは、紫電改と比較すると見劣りするのは否めなかったとの評。雷電担当の戸口飛曹長は紫電改は総合的には雷電より上だが、局戦の立場に絞れば雷電にはかなわない、上昇力は雷電が一番との評価。
 
空技廠製のターボ付きはタービン排気が尾翼に当たってバフェッティングがひどかったらしいが、小福田少佐の発案で整流板を取り付け解決した。
 
谷田部空で整備をしていた林英男少尉が一番悩まされたのは降着装置で、着陸時に先に着地した方の脚が折れることが多かった。これは三菱が補強を行って解決。
 
【邀撃戦たけなわ】
352空・乙戦隊で分隊長機に2本、小隊長機に1本のイナズマ塗装をすることを提案したのは栗栖飛長。分隊長の青木中尉はかなり気に入っていたとのこと。
332空相沢善三郎中尉のコメントでは、高度6,000mまでは6~7分で上がれるが、9,500mまでは20分以上かかり、その高度で水平飛行に移っても飛んでいるのがやっと、らしい。
302空の寺村大尉、坪井大尉は昭和20年の2月16日に利根川上空で4機のF6Fと空戦にはいり、1対2の空戦を2組行った。結果は被撃墜0で相手を1機撃墜。赤松貞明少尉がこの日F6Fを4機撃墜した模様も書かれているが、これは零戦を駆っての戦果。
 
高座工廠での製造は21型のみだったが、翼の工作精度が悪く、横空審査部の山本大尉が実測したところ、6~7ノットもカタログ値より悪かった。また302空の受領テストでは高度5,000からの降下テストで計器速度で400ノット出る機体が少なくなり、主翼がねじれる傾向があった。また高度7,000mから1,500mまで降下すると5機のうち3機はロールしてしまったらしい。横空から派遣された森上飛曹はテスト飛行中に空中分解事故にあったが、その報告された内容、残骸、生産中の機体を調べた結果、垂直安定板の取り付け角が狂っていることが判明した。
 
昭和20年1月から2月にかけて302空で空技廠製ターボ装備機がテストされた。着陸速度は120ノット(220km/h)にもなっていた。操縦席右側にあるレバーを引くと過給動作が開始したとあり。
352空は20年3月時点でターボ機が10機はあったが、操縦できるものは一人しかいないので、排気ターボなしか零戦52型丙と交換して欲しいとの機密電が送られた。
 
【終局への四ヶ月】
雷電による撃墜記録はB-29だけでなく、F-13もある。302空の坪井大尉もその記録を持つ一人。
302空村上義美一飛曹のコメント、「P-51のほうが速く、『雷電』ではかなり苦しい。味方はこれに最も多くやられた。P-51に比べればF6Fは振り切れるので、さほど恐ろしくなく、F4Uはどうということもなかった。」
このP-51を2機同時に撃墜したのは赤松中尉。この時は河井繁次飛曹長がサポートにはいっていたおかげもある。
 
5式30mm機銃を装備した33型改が332空で使用された。林藤太大尉が試射したときの記憶として給弾装置の不具合と発射速度の低さを挙げている。302空に配備された機体を山川光保上飛曹が試射したときには片側が故障し、撃つ度に機体が揺れたらしい。山川上飛曹は大口径機銃よりも弾道特性の良好な13mm機銃を6挺付けてくれた方がいい、と思っていた。
 
8月17日に鳴尾の332空の林藤太大尉、越智明志上飛曹が米艦艇に体当たりするため、に索敵を開始。しかしエンジン不調のため2機とも不時着または不時着水した。これが雷電の最後の戦闘行動。最後の日本人による最後の飛行は11月3日に332空の林大尉、渡辺光允大尉、松本佐市飛曹長、斉藤栄五郎飛曹長が33型甲4機を鳴尾から追浜への空輸。このときは既に星マークが入っていたらしい。
 
【参考文献】
 
航空技術の全貌〈上〉 (1976年) (わが軍事科学技術の真相と反省)

航空技術の全貌〈上〉 (1976年) (わが軍事科学技術の真相と反省)

  • 作者: 岡村 純
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 1976
  • メディア: -
 
航空技術の全貌〈下〉 (1976年) (わが軍事科学技術の真相と反省)

航空技術の全貌〈下〉 (1976年) (わが軍事科学技術の真相と反省)

  • 作者: 岡村 純
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 1976
  • メディア: -
 
海鷲の航跡―日本海軍航空外史

海鷲の航跡―日本海軍航空外史

  • 作者: 海空会
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 1982/01
  • メディア: -
 
福田機還らず (1965年)

福田機還らず (1965年)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: )福田貞三郎
  • 発売日: 1965
  • メディア: -
 
海軍中尉蔵元善兼 (1977年)

海軍中尉蔵元善兼 (1977年)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 蔵元政雄
  • 発売日: 1977/08
  • メディア: -
 
 
零戦開発物語―日本海軍戦闘機全機種の生涯 (光人社NF文庫)

零戦開発物語―日本海軍戦闘機全機種の生涯 (光人社NF文庫)

  • 作者: 小福田 晧文
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 2003/06
  • メディア: 文庫
 
大空の決戦 (新戦史シリーズ)

大空の決戦 (新戦史シリーズ)

  • 作者: 羽切 松雄
  • 出版社/メーカー: 朝日ソノラマ
  • 発売日: 1994/03
  • メディア: 文庫
 
  • 戦う雷部隊戦史/雷部隊戦友会/松永栄夫
  • 新兵器実戦記/羽切松雄/今日の話題社
  • 厚木零戦隊戦記/森岡寛/今日の話題社
  • 日本撃墜王/赤松貞明/今日の話題社
 
【文庫版あとがき】
十四試局戦の滑油冷却器の装備位置が不明とある。J2M1はカウリング下面に滑油冷却器用の空気吸入口がなく、かわりにカウリングの前半部が生産型よりも約20cm長いので、著者はこの位置に環状滑油冷却器を入れていると考えて、曽根技師に尋ねてみたがはっきりしなかったようだ。もう一つJ2M2はカウリングの長さが生産型と同じなのに、やはり空気吸入口がなく、いっそう冷却器位置がはっきりしないというもの。(1992年8月)
 
【新版のあとがき】
改版によって、加筆され当初のサンケイ版に比べて2倍ほど内容が増えている、とコメントあり。(1998年3月)
 

つばさの決戦―帰らざる隼戦闘隊 檜与平 [書籍]

つばさの血戦―かえらざる隼戦闘隊

つばさの血戦―かえらざる隼戦闘隊

  • 作者: 桧 与平
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 1984/01
  • メディア: 単行本
 
昭和59年元旦の日付で、新装版まえがきとなっている。オリジナルは1967年らしい。
有名なエース檜氏の回想録で文字数もかなり多くて読み応えはあるが、機体の性能や戦術に関する話はあまりない。
 
【第一章 空に泣き、空にいのる】
回想は昭和16年12月のマレー半島コタバル基地から始まる。かの加藤隼戦闘隊の所属。クアラルンプールではバッファロー、シンガポールでの戦闘の相手はハリケーン、スピットファイア。
 
【第二章 あゝ加藤”隼”戦闘機隊】
パレンバンに進出した折、P-43と遭遇とある。確か生産数も少なかったはずで、なかなか珍 しい。
パレンバンへの落下傘降下を援護したのは昭和17年の2月14日。降下したのは300人あまり。
足を負傷する前にも、戦闘でかなりひどい怪我をしている。相手はフライングタイガースのP-40(たぶん)。被弾は21発で左腕と左臀部を負傷、右の燃料タンクは空になったが2時間を飛行し最後は滑空で着陸した。日付は4月10日となっている。
 
【第三章 恨みは付加しベンガル湾】
5月22日、加藤建夫部隊長はブレニムを撃墜した時に自らも被弾。海面へ自爆した。
 
【第四章 生くるもの死するもの】
 いったんビルマを離れて、内地に帰還。明野で6ヶ月間の中隊長教育を受ける。教育課程を終えてすぐにビルマへ戻っている。ビルマの部隊の整備体勢は万全だったようで、出動機数は常に100%だったとある。
 
【第五章 いうなかれ君よ別れを】
B-24との戦闘では相当苦労していた様子が書かれている。あるときには1機のB-24に対して5機の隼がくいつき、1000発以上を命中させているのに撃墜できなかったとある。初の撃墜は体当たり+尾部からの攻撃。
 
【第六章 あゝ好漢 大空に散る】
 苦労したB-24も次第に撃墜の話が出てくる。穴吹軍曹は一度にB-24を3機とP-38を2機撃墜したらしい。もっとも最後は体当たりだったらしいが。
 
【第七章 おそいくる昏迷の中で】
モスキートにも手を焼いていたらしいが、かの黒江大尉がようやく撃墜する。
P-51との初戦闘では味方の被害なしで3機を撃墜している。 日付は昭和18年11月25日。捕虜になった第7飛行団長ミルトン大佐の話として、P-51はビルマ戦線が初参戦としている。
そのすぐ後の11月27日の戦闘でB-24を撃墜、もう一機を狙っていたときに下方からP-51からの銃撃を受け右足を負傷。内地に帰って本格的な治療が始まった。
 
【第八章 大空へ還る日のために】
軍医学校では治療がある程度終わると、義足を付けるために再度負傷した右足を整形する。また、その後も義足をつけるための訓練がかなりつらそう。読んでいてこちらもつらくなる。
入院中に東宝の関係者が見舞いに来ているが、それは筆者は「加藤隼戦闘隊」の映画化に協力したからとか。
 
【第九章 ふたたび隼を駆って】
昭和19年11月27日に立川から明野まで飛行機で向かう。乗機は試作機のキ-102で、操縦者はその頃内地に戻っていた黒江少佐。明野では57期将校学生とビルマの留学生の担当教官で小林照彦大尉の後任。
射撃訓練では15発で28点のほぼ完璧な成績だった。
鹵獲したP-51と三式戦の戦闘訓練の話が一瞬出てきるが、「三式戦は、P-51の前には問題にならなかった」とのこと。このときは黒江少佐が乗っていたのだが、その直後にもう一度上がったとき、発電機が故障し乗れなくなった。P-51を撃墜して発電機を調達しようとしていたらしいが、結局その後再び飛行可能にしたという話は出てこない。
 
【第十章 大空への悲願もむなし】
その後明野の本部に入ることになり、キ-100に乗るように言われたが、キ-100のブレーキは義足の航空靴ではうまく踏めなかったらしい。そのため、鍛冶屋に行って義足の一部を切り取ってしまった。キ-100自体は旋回性能、降下の出足速度などがかなり気に入り、自分の意のままに動くと感じた。また故障も少なく、「半年前にできていたら、あるいは戦局が変わっていたかもしれないと思われるほど」という感想。
 
 明野で編成された第20集団では第二大隊長を務める。
 
 乗機であるキ-100には「飛行機の両翼にコバルト色の斜線、胴体にもコバルト色との鉢巻三本を引き、プロペラボスもコバルト色と派手な色」にマーキングしたとある。スケールアヴィエーション2009年5月号に載っていたイラストとも合う。
6月5日の初のB-29迎撃戦では13機のキ-100で撃墜6機、不確実5機とある。
 
高松へ転進後の7月16日、負傷後初の対戦闘機戦闘を行う。相手は因縁のP-51。250機対24機なので、はなから勝負にならないが撃墜6機、不確実5機の戦果を挙げている。味方は自爆が3名、落下傘降下したもの2名。
 
【戦闘隊精神の勝利 -あとがきに代えて】

隼 南溟の果てに 南太平洋空戦の記 四至本広之烝 [書籍]

隼 南溟の果てに―南太平洋空戦の記

隼 南溟の果てに―南太平洋空戦の記

  • 作者: 四至本 広之烝
  • 出版社/メーカー: 戦誌刊行会
  • 発売日: 1984/07
メディア: 単行本
 
著者は大正9年生まれで、昭和16年、陸軍航空士官学校、明野陸軍飛行学校卒業。第54期生。飛行第11戦隊に配属。最前線を転戦。乗機も97戦から一式戦I型、II型、四式戦と転換している。戦闘に参加した時の話は何箇所もあるが、具体的な空戦の方法や機体の性能などについてはあまり具体的な記述はない。
 
 
【第一章 軍国時代に生きる】
航空士官学校時代の操縦教官は黒江保彦大尉。 実戦参加はシンガポールが初だが、空戦はなしで、帰路燃料切れのため不時着。徒歩で帰隊する。
 
【第二章 無敵空軍】
パレンバンに移った後、昭和17年3月からはビルマ戦線へ移動。ここで空戦の相手として名前が出てくるのはハリケーン、P-40。97戦では苦労したらしいが、隼ではP-40と互角に戦えるとあり。また敵がロッテ戦法をとりはじめ、問題とされつつあったとしている。フライングタイガーの話もあり、64戦隊も相当手を焼いた相手としている。フライングタイガーでは1機撃墜で500ドルの賞金が出ていたらしい。
隼I型に機種転換したのは昭和17年の7月。明野で行われたが、転換訓練以外にロッテ戦法の訓練も行われた。機種を変えてから気をつけたのは急降下からの引き起こしタイミング。9月にはビルマ戦線に移動。
 
【第三章 死ぬまで生きる】
11月からはラバウル、ニューギニア方面へ。対戦相手もB17、B24、B25といった爆撃機相手が増えている模様。ラエでB25の邀撃中で被弾したが、パラシュート降下して生還する。P-38との空戦でエンジンをやられ、今度は海上に不時着。
 
【第四章 衆寡敵せず】
8~10機のP40、P38に囲まれたとき、海面近くを20分間逃げ回り、被弾はしたが無事帰還する。「優秀な隼の旋回性能をフルに出し切った」とあるので、坂井三郎のように相手が撃つと同時に回避操作をしていたのかもしれない。
B17との戦闘の話では、操縦席部分にある16mmの装甲板は隼の12.7mmでは貫通できないことは既に実証されていたとあり、またタ弾も通用しなかったとしている。
II型に機種変換したのは昭和18年の7月から。またロッテ戦法と夜間飛行訓練が行われた。8月には満州に移る。II型でスピードが増したことから、「これでどうやらP38やP40と対等に戦えるという実感が湧いてきた」とあるので、I型ではやはり厳しかったようだ。この頃からさらに集団戦の訓練が徹底されたとある。
その後満州から中国戦線に移動するが、中国大陸では電探による情報伝達と反応が速やかだったので戦闘が有利に出来た。
昭和19年2月には疾風への改変指令が出る。このときは福生で訓練。疾風の諸元のうち、最高速度は650km/hとしているが、カタログ値なのか、筆者の実測なのかは不明。また同時に故障が多い、とくに潤滑油系統に欠点が目立ったとある。
フィリピン、台湾方面へ進出したあと、本土へ帰還。昭和20年4月には下館で飛行第1戦隊長となる。夜間のB29の邀撃にも上がっているが、灯火管制のしかれた中を単座機で飛行場へ戻るのに相当な苦労をしている。

飛行機をめぐる冒険 [書籍]

飛行機をめぐる冒険

飛行機をめぐる冒険

  • 作者: 中村 浩美
  • 出版社/メーカー: ポプラ社
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本
 
 
 
 
 
 
著者は元航空ジャーナル編集長。取材等を通して印象に残っている飛行機にまつわる話が数編。文章は簡潔で読みやすく、写真もそこそこ豊富。
 
【僕がイーグルになった日 戦闘機F-15イーグル搭乗記】
戦闘機に乗った民間人として、斉藤茂太氏の名前が出てくるが、他に三島由紀夫がF-104に搭乗したとある。言われてみれば以外でもないが、本にその経験を書いてるとは知らなかった。
 
飛行機とともに―羽ばたき機からSSTまだ (中公新書 301)

飛行機とともに―羽ばたき機からSSTまだ (中公新書 301)

  • 作者: 斎藤 茂太
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1972/01
  • メディア: 新書
 
 
太陽と鉄 (中公文庫)

太陽と鉄 (中公文庫)

  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1987/11
  • メディア: 文庫
 
 著者がF-15に乗ることになったのは、1981年のTVの取材のため。乗ったのは嘉手納基地18TFWのF-15D機番567で、それも通常訓練中の機体に同乗するというもの。米軍の通常訓練に参加(?)するのは日本人初らしい。その後もそんなにないだろう。訓練は4機のF-15CがこのF-15Dをアタックするという内容。著者の印象ではF-15Dのコクピットはエアコンが効いていて、振動も少なく快適とのこと。訓練の途中には操縦桿を持たせてもらったとあるが、うらやますぃ。
 
【世界記録の夏 レーサーRB-51「レッド・バロン」の伝説】
 RB-51のオーナー、エド・ブラウニングがレッド・バロンと言うあだ名なのは有名だが、かの銃器メーカー、ブローニングの一族であるとははじめて知った。もっとも本人はアイダホのポテト農場の経営をしているが。RB-51は1974年に、それまで"ミスRJ"や"ロト・フィニッシュ"と呼ばれていたのを購入したもので、翌年1億円以上をかけて改造を行ったとある。1975年当時の1億なら相当なもんだな。1976年にパイロットとして、ダリル・グリーネマイヤーがチームに参加。グリーネマイヤーといえばコンクェストIが有名だが、もともとはロッキードのテストパイロットだったんだな。流石と言うべきか。ちなみにテストパイロット時代に乗った機体としてF-104、U-2、SR-71が挙げれている。RB-51は1977年にリノで時速430.703マイルで、かつ他のレーサーを全て周回遅れにするという完全優勝をする。
RB-104の話もあり。この機体は1965年からグリーネマイヤーが部品を一つずつ買い集めて自作したもの。これにエドとアメリカン・ジェット・インダストリー(後のガルフストリーム・アメリカン社)が協力し、登録記号N104RBとして完成させた。エンジンはJ79-GE-10だが、今もって入手経路は不明のまま、とある。公に出来ないルートで手に入れたと言うことでしょう。このRB-104が世界最高速度記録を達成したのは1977年10月24日で、平均速度1590.45km/h(988.260m/h)。その後にMig-25の改造機、E-266Mが持つ高度37,650mを超える高度記録を狙っていたが、テスト飛行時にギア故障が判明し、放棄された。
1978年からRB-51を操縦したのは、後にプレーンズ・オブ・フェイムの零戦が里帰りしたときに操縦を努めたスティーブ・ヒントン。
1979年にはレシプロ機の最高速度記録に挑戦。途中でグリフォンに穴が開くというトラブルもあったが、スペアに載せ換え再挑戦。ちなみにエンジンの換装には10人以上のメカニックがいて12時間かかったらしい。記録達成は8月14日で、結果は499.018 m/h(803.07 km/h)。記録の判定は、模様を撮影したフィルムをデータ・アナライザーというもので解析することで行うらしい。具体的な方法はどんなもんだろう。
残念ながら記録達成後の9月16日、レース中ゴールをした直後にエンジントラブルで不時着。機体は失われる。
レア・ベアが528.329 m/h(850.239 km/h)で記録を更新するのは、それから10年後の1989年8月21日。スティーブの息子はリノ2008でストレガでデビュー、と同時に491.822 m/h(791.489 km/h)の新記録で優勝。すげー。
 
【アウトロー・トレイルの空 フライング・カウボーイとの出会い】
 飛行機的は話はほとんどなし。でもこの文どこかで読んだことあるな。
 
【惜別のダート・サウンド YS-11のラスト・フライト】
 YS-11の最終フライトはJA8766/JA3766で、1970年製造の製造番号2142号機によるもの。この機体はYS-11A-200をYS-11A-500に改修している。
 YS-11の設計は1958年に春に始まり、総合主任・木村秀政(日大教授)、空力分野・菊原静男(新明和工業)、構造分野・堀越二郎(新三菱重工業)、艤装分野・土井武夫(川崎航空機工業)、企画分野・太田稔(富士重工業)の各氏が主任だった。
 YS-11の設計ではいくつかのエンジン案、主翼(翼面積)案があり、それぞれの第1案が選ばれた。これと「輸送機設計」の略号YSを合わせてYS-11となったとある。よって数字部分は「じゅういち」ではなく「いちいち」が本来の読み方。しかし、その後マスコミ等の影響で、なし崩し的にじゅういちになっていったとのこと。
 
【フライト・デッキの驚異 空母「キティ・ホーク」の一週間】
 2006年にキティ・ホークに滞在したときの記録。キティ・ホークの名前はライト兄弟にちなんでたんだな。知らんかった。
空母に行くための足はE-2AをベースにしたC-2Aグレイハウンド。
スチームカタパルトは2秒で333 km/hまで加速する。発艦手順の解説がなかなか興味深い。
着艦エリアは36mしかなく、4本のアレスティングワイヤがある。ワイヤの直径は約3.8cm、甲板表面からは7.6cm離されてセットされる。ワイヤは一律のテンションかと思っていたが、着艦する機体の重量に合わせて張力を毎回セットするらしい。F-18CとEでも違うらしい。

新・蒼空の器―大空のサムライ七人の生涯 [書籍]

新・蒼空の器―大空のサムライ七人の生涯 (1980年)

新・蒼空の器―大空のサムライ七人の生涯 (1980年)

  • 作者: 豊田 穣
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 1980/10
  • メディア: -
 
筆者は昭和12年海軍兵学校入校、第二分隊編入。昭和16年に霞ヶ浦航隊付、第36期飛行学生。17年に大分宇佐航空隊に配属。18年4月にイ号作戦で撃墜され、米軍の捕虜となり、21年に帰国。
 
艦爆乗りの経験や、実際に戦中にあった人物、また戦死した者については戦後関係者にインタビューしているので、記述はそれなりに真実味がある。ただ、戦闘の記録はなどを米側の資料も参照して綿密に調べたという感じはなく、日本側の報告記録のみに基づいている模様。昭和20年3月18日の343空による松山上空戦でも撃墜数は60機以上という数字をそのまま使っている。また、どこまでが実際に本人から聞いた話で、どこからが関係者からの話、もしくは著者の想像されたものか分からない箇所もあり。
 
【春の嵐 <最後の撃墜王・菅野直の生涯>】
この章が本書の中で一番ページを割いている。 B-24を迎撃するときに、7.7mmで照準を合わせてから、20mmを発射するという記述がある。この2種類は弾道が違うから、こういう用途には使いにくいと思っていたが、爆撃機相手なら大丈夫なのか。
グラマンとの正面攻撃では、グラマン側が距離200mで射撃を開始しても、両翼からの12.7mmは自分の正面には被弾しない、逆に零戦の7.7mmは相手の真正面に集中できるとある。うーんそう言われればそうか。
343空が活躍できた要因の一つとして、紫電改が「公認記録より優速であった」ことが挙げられているが、これも本当なんだろうか。誉は整備に苦労して、カタログスペックはとても出ていないというのが一般的なとこだと思うんだけど。
今まで読んだ書物だと、菅野大尉は筒内暴発が起きた後、行方が分からないという感じだったと思うけど、本書では「ワレ空中分解ス、諸君ノ強力ヲ感謝ス、コチラ、カンノ一番」との無線が入ったとしている。いずれにしても最後を見届けた人はいないのは確からしいが、撃墜されたわけではないのかもしれない。 2階級特進の中佐。1年3ヶ月の戦歴で個人撃墜65機としている。
 
【惜別の人 <爆撃の神様・江草隆繁の生涯>】
インド洋、真珠湾での戦闘の様子が若干。機体自体の話はあまりない。ミッドウェーでは爆風に吹き飛ばされて大火傷をおったが、命に別状なし。Y20の開発ではテストパイロットとして参加。最期は19年6月15日、521空飛行隊長として、21機の銀河でヤップ島からサイパン付近の米空母部隊への急降下爆撃。50番を命中させたが、対空砲火とグラマンの銃撃で撃墜される。2階級特進の大佐。
 
本筋とは関係ないが、ミッドウェーでも問題になった雷装、爆装を転換するのに要する時間が載っている。
  1. 雷装→25番2発:2時間半
  2. 雷装→80番1発:1時間半
  3. 爆装(25番2発)→雷装:2時間
  4. 爆装(80番1発)→雷装:2時間

【黄色い月 <雷撃の神様・村田重治の生涯>
"ブーツ"というのがあだ名。南雲長官と気軽に話が出来る間柄だった。昭和12年12月12日。96艦攻隊分隊長として南京爆撃を行っているときにアメリカのパネー号を誤爆してしまう。昭和14年頃から浅海面発射の研究をはじめ、真珠湾攻撃で使用する魚雷のテストに参加する。実際の真珠湾戦闘ではバージニアに命中させている。第2次ソロモン海戦で、被弾しながら魚雷を発射。ホーネットに命中させた後、舷側に激突した。2階級特進。
 
【鬼神 <艦爆の親分・高橋赫一>】
この章も機体の話はほとんどない。戦闘の様子も少ないようだ。珊瑚海海戦でレキシントンに命中させた後、F4Fに撃墜された模様。全軍布告の2階級特進。海軍大佐。
 
【一期一会 <渡洋爆撃隊長・入佐俊家の生涯>】
爆撃機で敵戦闘機に対抗するために、緊密な編隊を組むことを発案したとある。「爆撃の照準と投下においても、地上練習機に改良を加え、爆撃手の練度を向上せしめた」と記述されているが、どのような内容だろう。最期は機上ではなく、大鳳の発着指揮所で爆発に巻き込まれた。2階級特進の少将。
 
【テニアンの鶴 <偵察の神様・千早猛彦>】
かの有名な電文はもう少し長く、実際は「偵察後、敵戦闘機F6F一、追撃ヲ受クルモコレヲ振リ切ル、吾ニ追ヒツクグラマンナシ」とのこと。最期は不明。2階級特進、大佐。
 
【撃墜王 <ラバウルの若きリヒトホーフェン・笹井醇一の生涯>】
初撃墜はP-40が相手で、「坂井三郎から伝授されたひねりこみ」を使ったとあるが、本当だろうか。坂井氏自身は実戦ではひねりこみは一度も使ったことがなかったと言っていたはずだが。笹井中尉を撃墜したのは、カクタス飛行隊のマリオン・カール大尉。2階級特進、少佐。
 
 
 
 

世界の傑作機 NO.51 B-25ミッチェル [書籍]

B-25ミッチェル

B-25ミッチェル

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 文林堂
  • 発売日: 1998/05
  • メディア: ムック
 
 
 
 
 
 Amazonでは発売日が1998年と出ているが、本の方には1995年3月となっている。1998年はたぶん増刷された年。
 
【Mitchell In Flight】
現在のフライアブルな機体の飛行中の写真が10枚ほど。型は全てJ型。
 
【開発と各型】(徳永進)
(旧「世界の傑作機」No.58より転載)
B-25(社内名称NA-62)は試作機が存在しないが、NA-40-1が原型になっている。 明示的に書かれていないが、文章からすると、NA-40-1の初飛行は1939年1月で、エンジンをP&W R-1830-56C3-GからライトR-2600-A7に換装したNA-40-2が出来たのが1939年2月らしい。NA-62の開発が始まったのは同年9月、1号機が初飛行したのは1940年8月ということになる。安定性を向上させるために外翼の上反角をなくしたのは10号機から。防弾強化型B-25Aは1941年5月登場。武装強化されたB-25Bは同年8月に完成。B-25CはC-1、C-5、C-10、C-15、C-20、C-25のサブタイプがある。カンザスシティ工場で製造されたものはB-25DでC型とほぼ同じ仕様らしいが、D-30、D-35のように微妙に違うものもある。B-25CとB-25Dが海軍でPBJ-1C、PBJ-1Dとして使用された。
XB-25EはB-25C-10改造の熱空気式の表面過熱防氷装置試験機、XB-25Fは電気式加熱防氷装置試験機でやはりC型の改造。
B-25Gは75mmM4機関砲を機首に装備したもので、1943年5月から生産された。B-25Hは1943年8月登場で同じく75mm砲装備だが、こちらはT13E1といわれるものらしい。機首側面に12.7mmを2挺ずつ装備されているのが特徴的。また胴体上部の回転銃座も操縦席の直後に場所を移している。
最終生産型になるB-25Jは75mm砲はなくなり、カンザスシティ工場で1943年12月から生産された。B-25Jの海軍型はPBJ-1Jとなる。
 
【B-25/PBJ-1各型解説】(後藤仁)
NA-40Bの写真も1枚あり。翼端まで上反角のついたB-25、煙幕装置を試験中のB-25C、離陸補助ロケットを使って離陸中のB-25C or D、日本海軍の海防艦1号に対して攻撃中のB-25J、製油所にパラシュート爆弾を投下直後のB-25J、シャングリラの甲板上のPBJ-1H、翼端にAN/APG-23捜索レーダーを装備したPBJ-1Hの写真が印象に残った。
 
【ドゥーリットル攻撃隊日本発空襲】(牧英雄)
皇居への爆撃は厳禁されたが、その理由は国民が激昂し、逆効果になるのを恐れたため。
 
【B-25の戦闘記録】(五十嵐剛)
1.太平洋戦域、2.ヨーロッパ戦域、3.米海軍および海兵隊のB-25、4.イギリス空軍のミッチェルの各章での解説と配属部隊の一覧あり。
 
【Mitchell In Action】(後藤仁)
低空で艦船を攻撃しているところが迫力ある。
 
【Nose Arts of B-25】(黒木一実)
ノーズアートがわかる写真が4ページほど。
 
【ノースアメリカンB-25の塗装とマーキング】(作図/解説 黒木一実)
6ページ分の塗装の例。モノクロページなのが残念。
 
【ノースアメリカンB-25ミッチェル 図面集】(Suzuki Yukio)
B-25Bの上下平面図、左右側面図、正面図。各型の側面図、B-25燃料システム図、B-25H機首照準装置、B-25H機首機銃、B-25H 機首75mm砲、旋回機銃ターレット、B-25C乗員配置図、機首側面機銃、B-25H 胴体後部側面機銃、尾部銃座、B-25H組み立て図 。

伝承 零戦 第2巻 秋元実 [書籍]

伝承 零戦〈第2巻〉

伝承 零戦〈第2巻〉

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 1996/09
  • メディア: 単行本
 
 
 
 
 
 
雑誌「丸」掲載された記事をまとめたものらしい。第1巻が見つけられなかった。
 
【第一部 零戦開発秘話】
  •  
  • 理想の零戦誕生への私の助言        空技廠飛行実験部 真木成一 大佐
試作機で堀越技師は運動性、重量軽減の見地から二翅のプロペラにすることを考慮していたが、テスト飛行の結果、振動が多くあきらめたとある。また最初の試験飛行で補助翼の効きがやや不良、とくに低速で悪いとされ、形状の一部を変更することで改善した。二十ミリ機銃については散布界が大きいことも懸念されたが、結果は見事なものだったとしている。結果がどのように「見事」だったかは具体的な記述なし。また発射時の反動が大きいので、片側が故障した際の照準の狂いが案じられたが、実際にはまったく問題なかったようだ。零戦は主翼の剛性が低いために20mm機銃の命中精度が悪かったとする話も見かけたことがあるが、少なくとも試作機のテスト中に問題になることはなかったとしてよさそう。


  • 零戦-絢爛・華麗・壮絶の生涯        空技廠飛行実験部 志賀淑雄 少佐

  • 私が開発した「栄」エンジンの秘話      空技廠発動機部     松崎敏彦 技術少佐
 
NK1Aの耐久試験はそれまでの7/10出力で400時間に加え、離昇高速運転(低速3分間をおいて急速に全力までレバーを開き5分間運転を続け、終わればふたたびレバーを急速に閉じ、低速まで回転を落とす。この繰り返しを連続百回行う)、超高速運転(出力5/10で回転数を公称回転数の13%にあげ、連続30分以上の運転を行う)も行われた。
 
零戦の機銃に賭けた私の悔いなき青春 横空戦闘機隊分隊長 田中悦太郎
零戦の特攻爆装はこうして完成した      横空戦闘機隊分隊長 田中悦太郎
 
特攻機には座席内に「爆弾信管風車抑え解除把柄」が特設されているのが大きな特徴。
 
マスプロ王国”中島製零戦”興亡秘史     中島飛行機設計部   中村勝治 技師
 
【第二部 零戦人物記】
 
 零戦の十傑(「丸」編集部)
日本戦闘機の生きた歴史-相生高秀少佐、「宝の持ち腐れ」を憂える-奥宮正武中佐、斜め機銃を実践から生む-小園安名中佐、不時着を覚悟して征け!-中島正中佐、艦戦カタギの典型-藤田恰与蔵少佐、心臓に毛の生えた男-羽切松雄中尉、プラスアルファの精神力-源田実中佐、人生万事是空戦-坂井三郎中尉、”ゼロ”に惚れ切った男-志賀淑雄少佐、草分け時代からの実力者-小福田租中佐
小福田中佐によると、対グラマン戦(F4FかF6Fか不明)において「同兵力ならば必ず勝ち、味方が1/2ならば激戦となって大抵引き分け、1/3では味方が相当の苦戦、1/5のでは歯が立たない」らしい。
 
ライバルの語る堀越二郎観
土井武夫、木村秀政、駒林栄太郎
 
【第三部 青い目の見たZERO】
  • ZEROの正体をめぐって
  • わたしはZEROと戦った
  • スピットファイアとの対決
【第四部 私は零戦で戦った<3> -ソロモンから比島まで-】
  • ソロモンの激闘
  • 中部太平洋の戦い
  • 激闘マリアナ沖
  • 台湾沖から比島へ
  • マレー・ビルマにも零戦あり
  • 冷戦を支えた地上員の闘魂
 "ラバウル整備隊"徹宵日誌(二五一空戦闘機隊・上整曹)
昭和17年1月に墜落したB17を使って20mm機銃のテストを行っている。機体そのままに対しての試射では主翼タンクのある付近に弾着したものの、瞬時に炸裂し、30mm程度の穴が開くだけだった。次にタンクだけを取り出し、テストしたところやはり命中と同時に炸裂し、タンクにはなんの損傷も与えられなかった。曳光弾はゴムの表皮を突き抜けてタンク内に入るが、ゴムが厚く弾性が強いため弾が貫通した後、瞬時に穴がふさがるため酸素がとおらず、燃料漏れもなかった。また操縦席後部の鋼板についても同様にテストしたが同じく損傷を与えることはできなかった。これらの結果から少なくとも10mm以上の鋼板を貫通した後に炸裂する弾に変更する必要ありと意見具申されたとのこと。この後20mm弾は改良されて効果をあげたらしい。
 
スクランブルで急発進、急上昇した際に多発する7.7mm、20mmの故障の原因調査をされ、機銃や弾倉に塗布してある油の凍結と予測。凍結防止のためにガソリンを混入し、比率を7:3にすることで解決をした。
 
零戦ウエポン・システム改造秘録(二○四空戦闘機隊 前田勲整曹長)
通常、零戦の左右の主翼下に搭載された3番または6番の爆弾は、座席左側のスロットルレバーの手前に設置されているそれぞれの投下レバーによって投下する。しかし、戦闘中にスロットルおよび操縦桿から手を離して操作するのはなかなか難しいということで、操縦桿の先に2つの投下スイッチを設けるという改造を行っている。また、爆弾投下後の投下器の空気抵抗を嫌うパイロットのために、投下後は折りたたんで主翼内に収納できるという改良も行った。しかし、この改造機は実戦で使用される前に空襲で被爆炎上してしまったらしい。

帰ってきた二式大艇 碇義朗 [書籍]

帰ってきた二式大艇―海上自衛隊飛行艇開発物語

帰ってきた二式大艇―海上自衛隊飛行艇開発物語

  • 作者: 碇 義朗
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 2004/01
  • メディア: 単行本
 
 
 
 
 
 
「帰ってきた二式大艇」とは、米軍に接収されて里帰りしたあの機体の事ではなく、その血筋を引き継いだPS-1/US-2のこと。物語は終戦直後の日辻少佐による海軍最後の二式大艇の空輸の話から始まり、航空禁止令解除後にはじめた新明和の飛行艇開発の話を中心に進められる。政治的、軍事的、商業的な見地からのエピソードもあり、新明和の飛行艇がどのような経緯で現在まで続いているのかよく分かる。一方で技術的な話は思ったより少なめで、BLC開発などもそれなりにブレークスルーした部分があったと思うがそのような話は書かれていない。特にUS-1A改のあたりの話が少ないのが残念。US-2からもう少し発展があれば、続編があるかも。
 
【第一章 最後の二式大艇】
戦後詫間基地には二式大艇と晴空が1機ずつ残っていて、七尾基地から空輸された1機とあわせて3機のうちから一番程度のいい426号機が整備され、日辻少佐によって横浜まで空輸された。130ノット以下で飛べない二式大艇が、巡航で105ノットしかでないPBYと一緒に飛ぶため苦労したのは有名な話。 アメリカに渡ったこの機体はテスト中、米軍の星マークを消して日の丸をつけていたと記述あり。テスト後は国立航空博物館で丁重に保管されていた。日本に帰ってきたのは昭和54年11月13日、費用を出したのは笹川良一氏となっており、この返還のタイミングが遅れていたらスクラップになっていた。
 
【第二章 隠忍の日々】
川西航空機が社名を明和興業株式会社に変更したのは昭和22年、24年には新明和興業になった。昭和27年に航空禁止令が解除され、昭和28年に社内に航空委員会を設置。委員会のメンバーは河野博、清水三郎、明和自動車にいた菊原静男、会社にはすでにいなかった徳田晃一、大沼康二、井上博之の各氏。航空機関係の最初の仕事はオーバーホールで、S-51ヘリ、輸送機のR4Q、デハビラント・ダブ、ハンドレページ・マラソン、C-47、PV-2など。昭和30年に防衛庁がT-1の募集をしたときの新明和の提案はT1S1で設計主任は菊原氏。昭和29年にDC-3の後継機検討の話が在り、こちらも菊原氏がチーフになって検討を始める。しかし、この話は昭和32年に輸送機設計協会を経て日本航空機製造株式会社にもっていかれてしまう。この機体がYS-11となるが、新明和の分担はかなり低くなってしまった。またP2V-7をライセンス生産する話でも当初新明和が担当する線で進んでいたのが、会社規模がネックになったらしく川崎重工に主契約をさらわれる。
 
【第三章 急がば回れ】
昭和28年航空委員会の菊原氏は今後研究すべき航空機を輸送機、ヘリ、飛行艇の3種類とし、新明和では新飛行艇の検討を始めることにした。水上滑走中の飛沫処理の実験、研究が昭和28年から32年まで行われ、34年に菊原氏は博士号を取得する。
日辻氏が海上自衛隊に入隊したのは昭和29年6月。グラマンJRF-5で訓練が始まる。日辻氏が隊長となる第91飛行隊が鹿屋に出来たのは昭和30年の暮れになる。翌31年にはコンソリデーテッドPBY-6Bも加わる。
新飛行艇の性能目標の一つが波高3mでの離着水であり、このためには揚力係数を4.0にすることが必要とされ、そのためにBLCが採用された。
この頃新明和が提案したアイデアの一つがF-104の主翼、尾翼、操縦席周りをそのまま使い、胴体と脚の代わりに艇体を取り付けた水上戦闘機。最高速度M1.0を目指していた。
昭和32年、アメリカに渡った二式大艇を調査したフレッド・ロックから手紙が届き、以後交流が始まる。そこから新明和で検討していた波消し装置がマーチンP5Mに適用されることになった。
 
【第四章】 動き出した山
昭和34年海自は対潜飛行艇を開発することを決定。35年には菊原氏の交渉により米空軍が保管していたSA-16Aを海軍が譲り受け、それが新明和に提供された。新明和での改造は多岐に渡り、尾翼、ハイドロダンパーを含む後部および艇体前部、中部は全て作り変え。主翼も外側に2基のエンジンを追加して4発にし、翼端、フラップ、エルロンも変更された。エンジンは元の内側2つが1400馬力の4翅ペラで、外側が600馬力の2翅ペラとなる。自動安定装置ASEはS-58ヘリのものを改造。 改造機UF-XSが初飛行したのは37年の12月。
 
【第五章 巣立つ先行試作機UF-XS】
試験飛行開始前に、旧海軍の空技廠飛行実験部で飛行艇実験をしていた中島大三元少将、寺井邦三、伊藤祐満の両元大佐、水上機出身の鈴木由次郎元大佐、岡村純元技術少将、跡部保元中佐らを招いて意見を聞いている。
UF-XSの日米合同試験後、米側パイロットの報告ではSTOL改造型C-130より多くの点で勝り、ブレゲー941に比較してもUF-XSが優れている、また水上特性もオリジナルのUF-2よりはるかに優秀とある。
UF-XSは現在かがみが原航空宇宙博物館にある。
 
【第六章 本命PX-Sの開発始まる】
設計主任の菊原氏はPX-Sの全重量を32.6トンとしたが、これは二式大艇などの経験から決めたらしい。
九七式大艇、二式大艇、PS-1の順で、初飛行は1936/1940/1967、最大重量(t):23/32.5/45、エンジン:金星53型/火星12型/GE T64-10E、馬力:1200x4/1680x4/3060x4、馬力荷重:4.8/6/3.7、翼面荷重:115/204/333、巡航速度(ノット):140/160/160、航続距離(海里):2050/3850/2400、着水速度(ノット):60/72/49-53、離水時間(秒):90/40/12、実用最大揚力係数:1.6/2.0/6.0となる。
基礎設計の段階では翼端フロートは跳ね上げ式も検討されていたらしい。PX-SのSTOL形態時にエンジンナセルの左右で圧力分布が異なるために左傾、左旋の癖があることがわかり、エンジンナセルが主翼上面から出ないように変更している。
菊原氏がレドームによって機種のラインが崩れることを嫌っていたので、設計はかなり苦労したらしいが、結局レーダー性能が優先された。
 
【第七章 生みの苦しみ】
PX-Sが初飛行したのは昭和42年10月29日。
主翼強度試験では設計荷重の200%に耐え、この時点ではやや強すぎだが、このおかげで後の重量増加、機体強化に耐えることが出来たとのこと。
戦後の対潜航空部隊は昭和30年に館山にSNJとTBMで創設された。その後P2V-7、S2Fなどが導入され、PX-SとP2V改、つまりP-2Jと繋がる。P-2Jも左傾の傾向が見られたのでPX-Sと同じ対策をとり、エンジンコントロールレバーを1基あたり3本から2本に変えたのもPX-Sの成果らしい。これらは土井さんの著書には無かったと思う。
 
【第八章 荒海に降り立つ】
PX-S試作1号機が岩国に飛び立ったのは昭和43年9月。2号機は11月に納入されている。これらの機体番号は5801と5802となる。
 
【第九章 世界で唯一の対潜飛行艇】
PX-Sのソナーは当初技術研究本部で開発された開傘直径7m、重量3.5t、ケーブル直径40mm、吊り下げ深度150mのものから米軍開発のAQS-6へと変更されている。昭和44年頃にグラマンでPS-1を生産、米軍に売り込む話があったが、結局需要予測がはっきりせず、コストが算出できないところから消えてしまったらしい。
部隊承認されて「PS-1型航空機」となったのは昭和45年4月1日。
 
【第一0章 試練に耐えて】
PS-1のBLC用のタービンエンジンと同じもの(?)がAPUとして使われているらしい。
昭和51年に事故で失われた機体は5号機の5805。
 
【一一章 新たなる旅立ち、救難飛行艇へ】
PS-1から救難飛行艇への改造で求められたのは、1200m滑走路で運用可能なこと、600海里以上進出し、5.5時間以上滞留できることなどで、このために離着陸用脚の開発と、燃料等裁量の増加、艤装の変更などが行われた。脚に使われるホイルはP-3Cのもの、タイヤはB737用、主脚オレオはC-1のものを使っている。
US-1 1号機は脚を出し忘れて着陸するという事故を起こしている。
 
【第一二章 来るか飛行艇の時代】
PS-1/US-1をパクッた中国のSH-5飛行艇の写真あり。似ているといえば、まぁ似ているか。
昭和50年にはPS-1の5801を改造して消防飛行艇が作られている。性能的には中々よかったらしいが。本格的に生産されることは無かった。
 
【第一三章 戦力化の苦悩】
飛行艇としての性能は優秀なPS-1だが、やはり着水事故で何機か損失を出している。また、着水の衝撃でフラップや外板が損傷することも珍しくはないらしい。パイロットの負担軽減のために途中からHUDが天井に備え付けられた。
色々改良も続けられたが、結局ソナーの性能がソノブイ等の他の哨戒機器の進化に追いつけず、哨戒機、対潜機としてのPS-1は時代遅れになってしまった。
昭和63年に新聞記者のインタビューに応える形で何人かのパイロットがPS-1の特性を語っている。それによるとPS-1の操縦はパイロットが対応する項目が多く、簡単な部類ではないらしい。
 
【第一四章 命を救う飛行艇】
機体の主出入り口開口面積を拡大したUS-1は4号機からで昭和55年の完成となる。また7号機からエンジンを3500馬力のT64-IHI-10Jに換装され、名称もUS-1Aとなっている。
 
【第一五章 明日への飛翔】
 US-1A改の計画がスタートしたのは平成8年から。改良点はエンジンを4400馬力のRRAE2100Jに換装、プロペラもダウティ社の6翅ペラに。これによって巡航速度は250ノットから300ノットへ向上。機体は与圧化され最大巡航高度は30000フィートに、操縦系統は3重のFBWとバックアップ用の機械式となっている。
 
【エピローグ】
US-1A改がロールアウトしたのは平成15年4月。正式な承認が降りればUS-2となる。
(この本の執筆時点ではまだUS-2になっていないが、この記事によればUS-2量産機は2009/2/19に納入されている)
 
最後の二式大艇―海軍飛行艇の記録 (1979年)

最後の二式大艇―海軍飛行艇の記録 (1979年)

  • 作者: 碇 義朗
  • 出版社/メーカー: 文芸春秋
  • 発売日: 1979/04
  • メディア: -
最後の二式大艇―海軍飛行艇の記録

最後の二式大艇―海軍飛行艇の記録

  • 作者: 碇 義朗
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 2001/03
  • メディア: 単行本
 
最後の二式大艇―海軍飛行艇の記録 (光人社NF文庫)

最後の二式大艇―海軍飛行艇の記録 (光人社NF文庫)

  • 作者: 碇 義朗
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 2009/03
  • メディア: 文庫
 
 

あゝ飛燕戦闘隊 小山進 [書籍]

あゝ飛燕戦闘隊―少年飛行兵ニューギニア空戦記

あゝ飛燕戦闘隊―少年飛行兵ニューギニア空戦記

  • 作者: 小山 進
  • 出版社/メーカー: 光人社
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 単行本
 
 
 
 
 
 
飛行第六十八戦隊で飛燕に搭乗していた小山進氏のニューギニアでの戦闘時の回想録。あとがきによると執筆されたときはすでに七十三歳になられていたようだが、戦闘の様子は詳細に記述されており図による解説もあってわかりやすい。ただし、日付などはあまりかかれておらず、全体としては六十八戦隊の着任から昭和19年初頭頃までらしい。経歴によると19年3月に教育第30飛行隊に配属になっているので、この直前頃までだろう。
搭乗した機体として出てくるのは訓練時の97戦を除けば飛燕のみ。タイトルは飛燕戦闘隊となっているが、文中では主にキ61もしくは三式戦という表現が多い。スタイルは別として信頼性の低かったといわれるハ40のせいか、性能的には零戦、隼、疾風などと比べてイマイチ評判がよくない飛燕だが、著者は性能を高く評価しており発動機の信頼性についても苦言は出てこない。
 
【第一章 南十字の星の下で】
ラジエーターのオーバーヒートを避けるために地上滑走は可能な限り短時間にするとある。結構失敗することもあったらしい。ウエワク到着後あてがわれた機体は第436号機で、そのときすでに翼12発、胴体8発の弾痕があり(修理はされていた)、この結果、速度で30km/hは落ちていたとのこと。編成は第一小隊第二分隊で長機は松井曹長。ちなみに第一分隊は編隊長の井上中尉と藤本軍曹。
最初の戦闘の相手はP-40、松井曹長のはからいもありこれを撃墜。著者は旋回性能、速度ともに三式戦の方が優秀としている。
 
【第二章 決戦の蒼き大空に】
P-40, P-47の混成約400機に対して48機で迎撃戦を行う。P-40を2機奇襲したのち、P-47を1機撃墜。この戦闘では39発の敵弾を受け、自身も負傷しているが無事生還。全体ではP-40を37機、P-47を3機、P-38を17機撃墜で、損害は7機。戦死は1名。
 
【第三章 愛機よ、今日も頼む!】
九九式双軽十機の援護を行い、P-38を撃墜。全体では双軽6機、33戦隊、68戦隊、78戦隊で9機の被撃墜、相手はP-47を12機、P-38を4機撃墜している。
マーカム渓谷ベナベナ飛行場群というところを奇襲する。夜間飛行では翼端灯よりも排気炎をたよりに編隊を組んだとのこと。使用している銃弾の種類について言及があり、普通弾、曳光弾、焼夷弾、徹甲弾、炸裂弾の5種類の中から主に徹甲弾、炸裂弾、焼夷弾の3種を常用していたとのこと。通常の巡航速度は330km/hくらいらしいが、戦闘巡航速度は420km/hとなっている。長距離飛行の場合は通常使用しない胴体内の燃料タンクも使うが、これに燃料を入れると重心が移動して旋回中に錐もみに入ってしまうこともあったらしい。この戦闘でも合計3機(P-40、DC-3、地上機)を破壊。飛行場を掃射したときに対空機銃から27発を受ける。 防弾鋼板にも弾痕が在り、米軍の12.7mmにも有効だったようだ。
対爆撃機戦闘ではB-24の集中砲火が脅威であり、対戦闘機戦の方が気が楽だったとある。戦闘機戦では米軍側が円陣隊形というものを使っていたらしい。円陣隊形をしていたP-38との戦闘では逃げるP-38にオーバーブーストで追いついたという記述がある。P-38の形式は判らないが、それなりに加速、最高速もよかったと思える。引き続きB24, p-40との戦闘があり、同じ日のうちにさらに弾痕が16発分増えていた。この戦闘ではB-24を5機、P-38を6機、P-40を12機、P-47を4機撃墜した変わりに、合計10機の損害があった。
 
【第四章 運命の神に守られて】
 昭和18年12月初旬にマウザー砲装備の補充機が到着し、既存の機体にも装着される。
砲の照準についての記述あり。胴砲は平行調整または300mの一点調整、翼砲が7.7mmの場合は400m一点調整、20mmになってからは平行調整だった。
B-25との戦闘があり、途中補給のために一度着陸するが、10分ほどですぐに離陸している。燃料、銃弾ともに補給したのかどうかわからないが、ずいぶん早い気がする。20mmの評価に関しては、威力があるのはもちろん、命中精度も高いとある。
 宮崎駿の雑想ノートにもあったヤシの機に12.7mm機銃を縛り付けて対空砲にするというのを著者らもやっている。もちろんそううまくは当っていない。
 
【第五章 わが命ある限りは】
P-38から銃撃をうけ、翼内タンクに命中。火災を免れるためと敵機の目を惑わせるため、エンジンを切って錐もみに入れる。飛燕では錐もみの一回点をする間に600mから1000mくらいは高度を失うそうなので、そう何度もクルクル回るわけではないらしい。やはり火災を避けるためにエンジンは再始動せず不時着する。飛燕は緊急時に風防をいったん閉めて両側のハンドルを引くと、側板とともに完全に機体から外れるようになっているらしい。不時着後は無事帰還できた。
著者本人ではないがP-38と三式戦の戦闘の記述があるが、ここでも三式戦に比べるとP-38は旋回性能が悪いとある。
 
【第六章 最後の一機になるまで】
昭和18年12月に三式戦の右翼に250kg爆弾、左翼に落下タンクをつけて米艦戦に対する爆撃を行う。離陸自体が難しく、190km/hにならないと浮力がつかなかった。訓練もなしのぶっつけ本番の急降下爆撃だったが、何発かは命中したらしい。爆弾投下後F4Fとの戦闘を行い撃墜している。この戦闘でも18発の銃撃を受けている。
別の日のP-38との戦闘では高高度からの一撃を行った後、急降下で退避しているがその時の速度は速度計の限界の780km/hを超え、計器が壊れてしまった。三式戦には最大1000km/hの速度計もあったらしい。
この後のP-47との戦闘でも旋回性能について三式戦の比ではないという記述がある。
ここまで何度か超過ブーストという言葉が出てくるが、三式戦では30秒間だけ使用可能な吸入圧というのがあったらしい。
 
【著者略歴】
対象2年10月17日岡山生まれ。昭和15年4月東京陸軍航空学校第三中隊へ第五期生として入校。同16年4月、少年飛行第十期生として熊谷陸軍飛行学校入学。同18年9月、飛行第68戦隊着任。同19年3月教育第30飛行隊配属。同年5月打に錬成飛行隊に助教として着任。終戦にいたる。陸軍軍曹。旧姓梶並。戦後瀬戸内航空パイロットとして勤務。
 

ステルス戦闘機 スカンク・ワークスの秘密 ベン・R・リッチ [書籍]

ステルス戦闘機―スカンク・ワークスの秘密

ステルス戦闘機―スカンク・ワークスの秘密

  • 作者: ベン・R. リッチ
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1997/01
  • メディア: 単行本
 
 
 
 
 
 
1997年の出版だが、謝辞の日付は1994年になっている。
 
 著者はかのケリー・ジョンソンの後をついでスカンク・ワークスのボスになったベン・リッチ。F-117Aの開発時の話がメインだが、U-2、SR-71、ステルス船シー・シャドーなどのエピソードもあり。訳者は増田興司氏。
 
【第1章 幸先よいスタート】
ケリー・ジョンソンは1933年、23歳でロッキードに入社、エレクトラの設計を担当。スカンクワークス自体の設計者は50人程度だが、機械工が別に100人程度。いずれにしても少数精鋭チームで、P-80、F-104、SR-71、U-2が代表作となる。「すばやく、静かに、時間通りに」がモットーのケリー・ジョンソンが1975年1月に定年退職したことにより、リッチがあとを継いだ。当時はL-1011がビジネス的に失敗し、政治的スキャンダルで会社もボロボロ、倒産寸前だった頃。リッチの最初の仕事はU-2をTR-1として再生産させることだった。その後、F-117Aの開発を主導することになる。
レーダーの専門家で数学者のデニス・オーバーホルザーが、モスクワで9年前に出版されその当時空軍により翻訳されたモスクワ工科大学のピヨートル・ユフィムツェフの「回折理論による鋭角面の電波の解析」を見出す。この論文は与えられた形状について反射する電磁波が求められるので、機体のRCSが計算で得られることになる。デニスはこれを「エコーI」として5週間でプログラム化した。
DARPAがステルス機の競争試作を始めたとき、ロッキードは当初お呼びがかかっていなかったが、1ドルで契約することにして途中参加した。
ちなみにSR-71はRCSはパイパーカブと同じくらい、F-14の1/100とのこと。ステルス性の65%は機体形状、35%はレーダー吸収材の寄与による。
 
【第2章 間に合わせの機体】
最初のステルス実証模型「絶望のダイヤモンド」はその形状からケリー・ジョンソンを含めた身内からも当初、懐疑的な意見が集中した。しかし、モハベ砂漠の「マクダネル・ダグラス」のレーダー試験場でテストを行った結果、レーダーには写らないことが確認された。1976年4月にノースロップ社に勝って、実証実験機「ハブ・ブルー」の開発が始まる。その際ハブ・ブルーはマンハッタン計画以来の最高機密指定になっている。 経費を節約するため、機体は色々な既存の部品が流用され、操縦用アクチュエータはF-111、操縦制御コンピュータはF-16、慣性航法システムはB-52、サーボメカニズムはF-15とF-111の改修品、HUDはF-18、操縦席はF-16のもの。1977年12月1日に初飛行、事故により2機(全部か?)が失われている。
 
【第3章 銀の弾丸】
 1997年、カーター政権に対しハブ・ブルーの説明が行われ、その影響からか3週間後にB-1Aの開発が中止される。これにより、空軍の一部に恨みをかったようだ。F-117の開発が始まったのはハブ・ブルーの実証実験が完了する前、しかもスケジュールはかなりきついもの。契約自体は1978年11月1日に調印され、1980年7月までに最初の機体を完成させることになった。インフレ、人材不足、工作の難しさなどで開発は困難を極める。また、秘密保持に対する要求もかなり厳しく、作業効率を悪化させる。テスター社が発売したF-19なるプラモデルが70万個も売れたこともこれに油を注いだ。
平面での組み合わせで構成されるF-117Aは空力効率が20%も悪いとあるが、何に対してかよく判らない。ピトー管の着氷問題を解決するのには2年半もかかっている。コクピットのガラスにも特殊なコーティング剤が施されている。一時期デュポン社が供給していたフェライト塗料のレーダー波の吸収能力が悪化したが、これはデュポン社が勝手に製法を変えていたためだった。最終的に1981年6月18日初飛行に成功。この日はベン・リッチの誕生日。
 
【第4章 いまいましい蚊】
最初の機体は尾翼の面積不足、剛性不足で飛行中に吹き飛んだ。生産は1986年までに33機、1990年半ばまでにさらに26機で、一機あたりの価格は4300万ドル。F-117Aの部隊ではカモフラージュにA-7が使われ、ダミーのペイントをしたナパーム弾を用意するとか、機体に「核反応冷却口」とか注意書きしていたそうだ。世間に公表されたのは1998年になってから。1991年1月の砂漠の嵐作戦で大活躍したのは有名な話。
 
【第5章 スカンクの由来】
ベン・リッチは1949年、カリフォルニア大学バークレー校に入学、3000人中20番で卒業の後、UCLAの修士に進む。スカンクワークスに入ったのは1954年の12月。熱力学のエンジニアとしてヘルプに入った。最初は臨時的な採用だったらしいが結局リタイヤするまで居ることになる。ケリーとのエピソードとして、入社二年目にリッチが設計していた図面を見るなり、空気取り入れ口が20%ほど大きいと指摘したそうだ。実際後で計算しなおすと、18%大きかった。エンジニアとしての直感はやはり鋭いものを持っていたようだ。
"Skunk Works"の由来だが、岡部ださく先生は隣が皮革工場だったから、と書いていたように思う。しかし本書ではプラスティック工場となっている。また当初は"Skonk Works"と呼んでいてこれは「インディアン・ジョー」という漫画に出てくる、古びた靴と死んだスカンクをいぶして「キッカプー印のジュース」なるものを作る蒸留所のことらしい。1960年にこの名称の使用に対して、ある出版社が異議申し立てを行ったので、"Skunk Works"に改名、ロゴと一緒に商標登録までしている。
 スカンクワークスの最初の作品はかのP-80だが、それに続く「サターン」小型旅客機、VTOLの「XFV-1」は失敗作となった。
ロッキード社が1932年、社運をかけた双発旅客機の風洞試験をミシガン大学で行われていたとき、一人の学生が指導教官とは正反対の意見を述べた。これが23歳ののケリー・ジョンソンで、ロッキードに気に入られ入社。このときの旅客機は双垂直尾翼に改修され「エレクトラ」となる。エレクトラを「ハドソン」に改造するのもケリーが中心的になって行われたようだ。
 
【第6章 大統領への絵葉書】
CIAはイギリス空軍と共同で「キャンベラ」を改造して高度1万6800メートルまで上昇できるようにし、ソ連の偵察を行ったが、10箇所以上も地上砲火で損傷した。探知できないほどの高空を飛行して偵察するアイデアを出したのはエドウィン・ランド博士という人らしいが、これが発展してU-2が計画される。
ベン・リッチはU-2設計においては空気取り入れ口と排気口の設計を担当している。 U-2の飛行高度は2万1400m、航続距離9600km。燃料も特殊でマイナス57度でも凍結しないようにシェル石油にLF-1Aという燃料を作らせた。このときケリーとシェルを仲介したのが、当時はシェルの重役だったジミー・ドゥーリットル。
最初のU-2が完成したのは1955年7月15日。秘密基地の「パラダイス牧場」で初飛行が行われたのは8月4日となる。
 
【第7章 ロシア上空を行く】
U-2の飛行は気をつかうらしい。燃料を消費したときのバランスの調整をはじめ、飛行速度も最高と最低の差がすくなく、さらに旋回中は内側が失速によるバフェット、外は高速によるバフェットが起きるといった具合。U-2は当初CIAが運用していたが、戦略空軍から横槍が入る。横槍を入れたのはカーチス・ルメイ。
 1956年7月4日にU-2は初のソ連偵察飛行が実施される。パイロットはポケットに青酸カリの錠剤を入れて任務についていた。ゲリー・パワーズが撃墜されたのは1960年5月1日。ソ連が打ち上げたSA-2で撃墜されたことになっているが、直撃ではなく、迎撃しようとしていたソ連機に命中し、その衝撃波で尾翼が損傷したらしい。パワーズはアメリカに戻った後、各所で非難されたがケリーが気の毒に思ってスカンクワークスで雇った。
 
【第8章 危うし、バーバンク】
U-2の後スカンクワークスは1956年から水素を燃料とする偵察機の開発を始める。今度のスポンサーは空軍。この機体はCL-400と呼ばれいたらしいが、M2.5で3万m上空を4800km飛行する予定だった。胴体の長さは90m近かったらしい。しかし、航続距離がどうしても計画に届かず中止となる。
 
【第9章 銃弾より速く】
SR-71の構想が始まったのはまだU-2が撃墜される前、1958年の春頃。同時期に海軍での高高度を高速飛行する「ルーブ・ゴールドバーグ」計画や、また別にコンベアがB-58を母機として、そこから有人ロケット機を発射するという案もあった。ロッキードはA-1からA-10までの改良型を検討したが、A-11でようやくRCSが90%減少し、計画が大きく前進。これをもとにして再度検討しなおしたA-12の設計が出来たのは1959年の夏。ブラックバードが"ブラック"なのは機体の熱を発散させるため。材料として多く使われたチタンの主な輸入先は当時のソ連。ユフィムツェフの論文といい、ソ連のスカンクワークスに対する貢献は大きい。他にボルトやリベットもチタン製で、自前で作ったパーツは1300万点、タイヤもアルミ粉を混ぜた特別製のゴムで充填されるのは窒素ガス。燃料もシェル石油が作った特殊なもので、KC-135から空中給油する際はマイナス70度で、これがエンジンに供給される前には180度くらいになる。オイルは10-400くらいに相当するもので常温ではほとんど固体で、事前に暖める必要がらしい。エンジンはP&WのJ-58(の改良型?)。ロッキードはP&WのIBM710を借りて一部の機体設計を行ったとある。空気取り入れ口設計の試験に使用されたのはNASAエームス研究所の高速風洞。電力量が膨大なため夜間しか使用できなかった。
ブラックバードの設計グループはわずか75人というのは驚異的。設計方針は80%の効率が達成できればOKとするというもの。残りの20%を追求すると、50%増ののコストと時間が必要となるため。初飛行は1962年4月だった。
 
【第10章 離陸】
 ブラックバードはホワイトハウスやペンタンゴンの色々な思惑の中で、その計画も右往左往する。バックファイアの存在が明らかになったときには、戦闘機へ仕上げることが検討され、爆撃機への転用が考えられたときにはルメイ将軍お気に入りのB-70の計画にも影響を与えている。低空を進行するF-111が計画されたときには、高空からこのような機体を迎撃可能なことが示されたが、計画は覆られなかった。
 
【第11章 ハブの思い出】
ブラックバードのチタン製の外板は飛行ごとに高熱で焼入れされることになるので、完成当時よりも強度が増していたらしい。
SR-71が引退する時は大陸横断速度記録に挑戦し、ロサンゼルス・ワシントン間が64分、カンザスシティ・ワシントン間26分。2404マイル(3869km)を67分54秒で飛行した。
 
【第12章 チャイナ・シンドローム】
スカンク・ワークスはSR-71から発射する無人の偵察機も開発した。試験では計画通りに飛行し、カメラ部の切り離しと改修もうまくいった。しかし、1966年のテスト時に発射した無人機がブラックバードの機体を破壊し、墜落する事故が起きた。これ以降は母機をB-52にして開発され、中国偵察に使用されたが3回も回収に失敗している。そのうちの最初の失敗は機体の行方もわからないものだったが、15年後にソ連のKGBがクリスマスプレゼントとしてその一部をCIAに届けたという。本当か?
 
【第13章 奇妙な船】
ステルス技術の応用として、ソナー反射率の低い潜水艦を海軍に提案したこともあったらしい。海軍はまったく興味を示さなかったらしい。ケリー・ジョンソンが作ったスカンク・ワークス原則は明文化されているものが14カ条あるらしいが、言い伝えられてきた15ヶ条は「海軍と商売するくらいなら、飢え死にしたほうがマシだ。やつらは自分で何がほしいかもわかっていない。さんざん引きずり回されたあげく、心臓を悪くするのがおちだ」というものらしい。
また双胴の「シー・シャドウ」というステルス船も作成されている。しかし、RCSが背面のノイズよりも小さすぎたために、かえって位置が判明してしまうという問題があった。
 
【第14章 永遠の別れ】
ベン・リッチは1972年にノースロップから引き抜きの話を持ちかけている。しかし、ケリー・ジョンソンが説得し、踏みとどまる。同じ年に空軍から軽量戦闘機の競争試作の話があり、ケリーは空軍の初期の要求仕様(重量17000ポンド、燃料等裁量5000ポンド、翼面積275平方フィート)を無視し、独自の仕様(重量19000ポンド、燃料9000ポンド、翼面積310平方フィート)で設計をした。ロッキードは試作競争に負け、ジェネラル・ダイナミックスの機体が採用された。その機体がF-16として運用が開始されたときにはケリーの案とほぼ同じになっていた。
 
【第15章 二億ドルの爆撃機】
スカンク・ワークスがステルス爆撃機を計画を始めたときにはF-111規模だったらしい。その頃ノースロップは議会がF-20の台湾への輸出を承認しなかったため、大きな損失を出していた。その埋め合わせとしてステルス爆撃機の競争入札への参加を認めたとベンは推測している。その後計画は当初の中型機から大型機へと変更され、スカンク・ワークスの計画も設計変更された。当然ノースロップとはまったく別に進められていたが、あるときベン・リッチの机にあった模型を見た国家防衛委員会の議長が「おい、ノースロップの模型を、どうやって手に入れたんだ」と口走る。どうもかなり似たものだったらしい。最終的にノースロップ案が採用されたが、その理由はノースロップの方が爆弾等裁量、航続距離が優れているというものだった。ステルス性ではロッキード案が優れていたらしいが。
 
【第16章 正しい結論を導くために】
スカンク・ワークスのように官僚主義、管理強化を排除した組織は少ない。スカンク・ワークスのようなコンパクトな開発体制がコストの削減に繋がるとの主張。F-22も高価すぎる。整備方法についても問題があり、SR-71の整備はスカンク・ワークスなら35人で出来たが、嘉手納基地に配備されたときの二機のブラックバードのための整備員は600人だった。
SR-71が当初RS-71という名前で、ジョンソン大統領が読み間違えたために膨大な経費をかけて名前を変更したことは有名だが、それ以外にも機体にSR-71ブラックバードと書くために耐熱性の特殊な塗料を開発したとか、アリゾナでの砂塵テストを行うとか色々無駄なことをやっている。
 
【補章 指導者の立場から】
 

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(2) 
共通テーマ:
メッセージを送る

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。